"さよなら"には早すぎて、"はじめまして"には遅すぎる
トイレの場所を中々覚えてくれず家中が糞尿まみれにされたり、叱ると噛みつかれたり、そこら中走り回ってフローリングや壁に傷を作られたり。
思っていた以上に子犬の世話は大変で、それまで抱えていた悲しみや苦しみを思い出す暇も悩む時間さえも与えられなかった。
毎日苛立つし、体はヘトヘトに疲れるがその当時の彼女には良い薬だったと今では思うらしい。
何度も希望を持って、何度も絶望に染められた。
失い続けた未完成の命にどれだけ謝り、どうすれば良かったのかと苦悩する度に泣くことしかできなかったことを考えると旦那の行動は間違っていなかった、と。
それから静かで穏やかなこの町に越してきた。
表向きはマルちゃんが家をズタボロにしたからだが、本当のところは旦那の実家に子供を産めない彼女は見限られたということだった。
最初はそれも耐えがたい苦しみだったが、その頃にはマルちゃんも大きくなってある程度言うことを聞くようになってきて手が離れ始めていたし、可愛いと思えるようになっていたのでそれが癒しになった。
海の音は心を落ち着かせ、坂を登るのは大変で嫌なことなど考える余裕を無くさせる。
我が子同然となってきたマルちゃんと無口で気遣いが下手ながらも自分のことを考えてくれる旦那がいて、両実家からのストレスからも解放された。
愛しい者とだけ過ごす穏やかな生活。
これさえあれば十分だとさえ思えた。
けれど、それで親たちが許すはずはなく、特に平松家は黙っていなかった。
そして三年前、彼女は衝撃的な内容を夫から聞かされたのだった。