熱海温泉 つくも神様のお宿で花嫁修業いたします
 

「前回来たときには窓に手跡がついておってなぁ。どうやら今回はそれもなさそうだし、とりあえず合格としてやろう」

「あ、ありがとうございます」


 花が再度小さく頭を下げると、虎之丞はどっかりと部屋の真ん中に腰を下ろした。

 虎之丞を案内した客室は、三部屋ある客室の中でも、ちょうど真ん中に位置する松の間と呼ばれる部屋だった。

 虎之丞はこの松の間がお気に入りで、理由は朝日がとても美しく見えるからということらしい。

 そのため前回訪れたときは、朝日を臨むための窓についていた僅かな汚れが気に食わず、散々仲居を怒鳴り散らしたというわけだ。

 実際、窓の汚れは小指の爪先ほどの曇りが窓の隅についていただけで、景観を損なうようなものとは言えなかった……というのは、あとで確認した黒桜の見解である。

 それでも当時の仲居はその窓の汚れを皮切りに虎之丞に散々いびられ、自ら辞職を申し出るまでに追い詰められたというのだから恐ろしい。


(でもなんだか、どこかで聞いたことのあるような話で……)


 かくいう花も、不可抗力で不倫女というレッテルを貼られて社内で身の置きどころがなくなり、自主退職をした身だ。

 前任の仲居の気持ちを思えば虎之丞に腹が立ちもするが、今は花が仲居で虎之丞は客という立場である以上、噛み付くわけにもいかなかった。

 
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