シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
 モエの問いにも、老人は何の反応も示さなかった。どれくらい沈黙が流れただろうか。老人の傍にいた少年が、焦れて老人の袖を何度か引いた。老人は、困ったように眉間にしわを寄せたが、少年を怒るようなことはしなかった。
 やがてモエに向き直ってようやく口を開く。その瞳には相変わらず漆黒の闇が漂っている。

「だとしたら…」

 モエは、バッグから写真を取り出すとテーブルの上に置く。そして、今自分が感じている恐怖と不安を悟られぬよう、ゆっくりと低い声で答えた。

「探してほしい人がいるの」


〈香港街景〉

 香港MRT(地下鉄)の中環(セントラル)駅近辺は、日曜になると出稼ぎフィリピン女性で溢れかえる。

 大抵は、欧米人や中国人の裕福な商人の家庭で家政婦(メイド)として働いている人たちである。休みの日曜日にここに集まって、路上や公共通路、付近の公園などに段ボールを敷いて、同郷の人たちとおしゃべりや食事、トランプなどをして楽しんでいる。

 雇い主の家に住み込みで働いている彼女たちは、香港に自分の家がない。そのため、唯一のお休みには、外に出て同郷の友人や親戚と集まって過ごすのだ。
 休日に飼い主の家に居ると、用を言われて休みにならないとか、盗難の嫌疑をかけられるとか、不謹慎な雇用主に言い寄られるとか…。とにかく用もないのに家に居ることは、不必要なトラブルに巻き込まれかねない。そんなことも、彼女たちがここにたむろする一因でもあるようだ。

 大概の人々は、それぞれの仲間のシートに集まって、おしゃべりの散弾銃を打ちまくる。しかし、そんな喧噪のなかで、誰とも話さず大判のスケッチブックを開き、スケッチを楽しんでいる女性がいた。彼女の名は、エラ。本名は、 Elaiza James Dacara。
 彼女も大半のフィリピーナがそうであるように、貧しい家に生まれ、16才で自立し、恋をし、裏切られ、過労による流産を経験し、そして体の回復も十分でないまま、母や家族を養うためにここ香港に出稼ぎにきている。

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