シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
 モエは、なぜか血に染まった夫の姿を思い出した。

「…老いて不具合が生じることは、我欲に満ちた現世への未練を少しずつ断ち切って、来世へ向かっていく準備なのだ思わんか?」

 漆黒の海の底で老いさばらえたドラゴンヘッドの言葉には、妙な重みがある。
モエは亡くなった夫を思った。モエの夫は若くしての突然死。自らの死を迎える直前まで、死ぬなどと考えてもいなかったはずだ。だから、ドラゴンヘッドの言うように、自らの死への準備などできていなかったであろう。きっと現世への未練を強く抱いたまま、来世へ旅立ったに違いない。彼の苦しみを思うと胸が張り裂けそうだ…。

 黙り込んでしまったモエに、ドラゴンヘッドが多少ためらいがちに話しかける。

「で、一応聞いておくが…その目にいいという…ルテンとかルーテルとかいうやつは、どんな食い物に含まれているんだって?」


〈香港街景〉

 結局気絶させてくれる人もいないまま夜が明けた。エラはベッドから這い出て、メイドの仕事に精を出した。体を動かしている方が、昨日から早く遠ざかれるような気がしていた。朝食を作り、掃除、洗濯。雇い主の家族のために、一心に家事をこなすエラ。エラの雇い主は日頃からのエラの働きぶりに何の不満もなかったが、今日はいつに増して精が出ていると喜んでいた。
 しかしエラの努力もむなしく、その日が終わってベッドに横たわっても、気絶できない夜に変わりはなかった。いい加減、あの日から一向に遠ざかれない自分に腹が立ってくる。
 夜が明けて、翌朝もがむしゃらに仕事をしたエラは、休む間もなく近くの市場へ買い物に出た。市場のあちこちを歩き回り、さすがに肉体的疲労を覚えたエラは、休みがてら昼食をとろうと馴染みのカフェの席についた。

 席について彼女は愕然とする。体を止めると、タイセイの姿がまた脳裏にちらつき始める。だめ、だめ。早く食べて、家の仕事に戻らねば…。

「あら、エラ、久しぶりじゃない」

 同郷の幼馴染であるピンキーが声をかけてきた。彼女は昔から、野心的で他人を見下したように話すのでエラもちょっと苦手だった。ここ香港でも、その野心をどん欲に発動し、メイドから雇い主の愛人の座を手に入れ、毎日を遊んで暮らす地位を手に入れていた。
 ピンキーは、エラに断りもせずに同じテーブルに腰を下ろした。

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