シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
 ピンキーは興味を失ったように、スケッチをエラに投げ返した。

「きっと人違いね。うちのゲスト達は、今も図々しく私の家でくつろいでいるわけだし」
「そうよ」
「ダーリンのお得意様だから悪口も言えないけど…みんな笑いもしない暗いやつばっかりでさ。到底堅気とは思えないわ、ほんと。…そうそう、その日本人もさ、地味なジャケットの胸ポケットに紙のチーフをしている変な奴だったもの」

 エラの息が止まった。息をすることを忘れるくらいの衝撃ってあるものだ。ただ、息を吐かなければ声は出ない。吐く息と同時に出たエラの声は、叫びにも似て市場中に響いたと言っても嘘にはならないだろう。

「ねえ、そのお得意様のお世話、私に手伝わせてくれない」


「どうです、ドクター・コウケツ。中国科学技術大学の教授の座に加え、中国科学院神経科学研究所で存分に研究していただける環境と資金を保証しますよ」

 タイセイは、タクシーから拘束されいきなり連れてこられた空き倉庫で、黒いスーツの男たちに囲まれていた。その中でただひとり、グレーに赤の細い縫柄で仕切られたチェックのスーツを着ている男が、にこりともせずに流ちょうな英語でタイセイに話しかけているのだ。

「拉致された上に…そんなことをいきなり言われても…」
「我々もドクターに対してこんな大業なことはしたくなかったのですがね」
「だいたい、学会でも話しましたが私の研究のメインは『網膜再生』ですよ。その研究にそんなに関心があるのですか?」
「いや、我々が望んでいる研究は『網膜再生』ではありません。『網膜記憶』です」

 リーダーが無表情で言ったその言葉に、タイセイは静かな憤りを覚えた。
 やはりそうか…。名もない基礎研究員の自分が、この学会の学術発表に招待されたのは裏があった。中国の誰だか分らないが、大勢の公務員を動かせるどっかの高官が、是が非でも『網膜再生』の実用化を図りたいと考えているようだ。
 この拉致は、かなり前から計画されていたのだろう。だとすれば、学会のプレジデントである梁裕龍先生はグルだったということか。今日、彼が自分に接近してきたのは、実はこの取引の探りを入れるためだったのだ。しかし、エラの突拍子もない発言で会話が邪魔された。その後、彼女が一日中タイセイのそばにまとわりついているものだから、結局こんな夜中に拉致されることになったのだ。

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