シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
 いたずらな、香港の風は、スプーンに盛られたレチェ・フランへ着地しようとする蜂の羽を狂わせ、エラの眼球にハチをぶつけた。本能的に瞼を閉じた彼女であったが、そのことが蜂を興奮させエラの眼球の上でひと暴れする結果となったのだ。

「キャーッ」

 彼女の叫び声は、半径50mにいる人間の注意をひくのに十分なものだった。

「痛い、痛い、痛い。何とかしてーっ」

 エラは、はた目から見ても、異常なほどのパニックを起こしていた。
 両手で目を押さえて、叫びながら地面を転げまわっている。目を擦りながら暴れて2次的な怪我をしかねない。まわりの友達が 彼女を落ち着かせようするが、パニック状態に陥ったエラの体をなかなか抑え込めないでいた。
 エラにしてみれば、闇の世界にはもう二度と戻りたくはなかった。闇の世界にもどるくらいなら、いっそ歩道の石に頭をぶつけて死んだ方がましだ。
 その時彼女は、腕を押さえられながらも、聞き覚えのある言葉を聞いた。

「私は目のドクターだから…安心してください」

 それは日本語であるから、フィリピーナのエラには、その意味が分かるわけはない。
 しかし、彼女はその言葉に聞き覚えがあった。そして、その言葉で奇跡を体験したことを思い出した。彼女はおとなしくなった。

「ちゃんと診てあげますからね…」

 目を閉じたままのエラは、自分の瞼に柔らかい指が触れるのを感じた。その指から伝わるぬくもり、そして目を閉じていても肌で感じられる相手の優しさ。

「うん、大丈夫。蜂は黒いものに対して刺す習性があって、黒目(角膜)の部分が刺されることが多いのだけど、角膜に損傷はないようですね」

 彼は診察をしながらそう言ったが、日本語であるから誰一人理解しているものはいない。周りの女性たちはきょとんとした顔で彼を見つめていた。

「ああ、ごめんなさい…眼球の表面がちょっと傷ついた程度です。充血しているけど、洗浄しておけば大丈夫です」

 彼は英語に切り替えると、持っていた洗浄液で、エラの眼球を洗い、白いガーゼで軽く眼帯を施す。

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