シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
 洗浄液に白いガーゼ。先輩の医師でもある母親にしつこく言われて、こんなものを持ち歩く習慣が身についた。しかし、無駄だと思っていたこんな習慣が、初めて役に立った。周りの女性たちは、突然現れたドクターが、手際よくエラの瞳を処置するのを感心しながら眺めている。
 ひと通りの処置を終えるとドクターは、エラのこめかみに両手を添えて眼帯の位置の調整し、笑みを浮かべて言った。

「これでOK。そのうちはっきり見えるようになりますよ」

 その声に安心して、エラが、無事な方の目を開ける。そのぼやけた視点の先に、ドクターの顔の輪郭を見た。彼女の胸が苦しくなり、動悸が激しくなる。ああ…ようやく出会えた。理屈ではなく、心が感じた。

 そして、事件は突然起きた。こめかみを支えられていたエラが、突然ドクターに飛びつくと全身の力を込めてしがみついた。
 ドクターは比較的長身で、小柄なエラとは身長差があったが、なんせ目の治療で顔の位置が近かったこともあり、ドクターはそれを避けることができなかった。というか、驚きのあまり動くことができなかったというのが本当のところだ。
 エラは治療した目に一杯涙を溢れさせて、頬をドクターの頬に摺り寄せながら、治療の感謝とは程遠い、強く情緒的なほっぺチュウを何度となく繰り返した。周りを囲む女性たちから、大きな歓声が起きていた。


〈九龍城砦〉

「確かに、人を探し出して消す仕事は多く手掛けてきたが…」

 長い沈黙の後、ドラゴンヘッドはようやく口を開いた。

「探すだけでいいの。消してもらっては困るのよ」

 モエは慌てて相手の誤解を訂正する。

「だが、いくら仕事でも、誰の依頼でもやるとは限らない。お互いの信用が第一なんでね。それが、この海の底で生き残る秘訣なんだよ」
「わかっているわ。いきなり来た見も知らぬ日本人の依頼を、素直に受けてくれるとは思っていない。だから、せめて信用をお金で買えたらと思って…」

 モエは、バックの中から取り出した香港ドルの紙幣の束をテーブルの上に置いた。

「ここに150万香港ドルある。仕事を受けてくれたら、これを着手金として支払うわ」

 札束を見てドラゴンヘッドの漆黒の瞳の奥にわずかながら生気の光が宿った。そして、せき込むほどの大笑いを始めた。交渉に乗ってきたと勘違いしたモエはさらに言葉をつづける。

< 7 / 75 >

この作品をシェア

pagetop