シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
 モエはそんなスタッフの言葉をじっと聞き入っていたが、意を決するとやおら親子の方に歩き出した。

「ドクター纐纈。もうパネルの時間が…」

 慌てるスタッフの声にもとどまることなく、モエは女の子に近づくとその包帯を解こうと額に手御当てた。びっくりした女の子が身を引く。

「だいじょうぶ。私は目のドクターだから…安心しなさい」

 モエは思わず本国での診察のように日本語で女の子に語り掛ける。おびえた顔でモエを見る母親。日本語など通じようもないことに気づいたモエは、スタッフの通訳でタガログ語に訳させた。母親も納得したのか包帯を取り、モエは女の子の目を診察し始めた。

「目の周りにかなりの裂傷が見られるけど…見えなくなった原因は何?」

 モエがスタッフに事情を聴くよう促す。

「どうもその子は、父親のDVにあったようで、顔を強く殴られたみたいです」

 モエは女の子の瞼をやさしく押し包むと、手にしたペンライトで瞳をのぞき込む。

「父親に殴られてどれくらい経つの?」
「父親に殴られたのは、3か月くらい前で、その時はなんでもなかったようですが、2か月前くらいから両目で『飛蚊症』や『光視症』が出始め、その後視野欠損が広がり、現在ではほとんど見えないそうです」
「典型的な外傷性網膜剥離ね。それも両目なんて…とってもひどい暴力を受けたに違いないわ。まずその父親を警察に通報するべきよ」

 スタッフはモエの言葉を女の子の母親に通訳する。

「たしかにこのまま放置したら、この子は一生闇の世界で生きることになるでしょうね」

 女の子の診察を終えたモエは、ペンライトをポケットにしまいながらスタッフに向き直った。

「たしか、あした新人向け手術手技セミナーがあったわよね」
「ええ、先生にはルーキーの手術を見て指導していただく予定です」
「予定変更。明日は私がデモ手術するわ。テーマは外傷性網膜剥離の治療のための硝子体手術。手術で剥離を元に戻し、裂孔の周囲をレーザーなどで凝固させて塞ぐ。それを私がやるから、ルーキーに見てもらいましょう」
「ええっ!」
「病院の手術室をひとつ押さえてちょうだい。それから、申し訳ないけど大勢の医者の卵に囲まれて手術することになるから、この子の母親にその承諾を取ってくれない」
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