黙って俺を好きになれ
ひとしきり泣いてしまうと。流れ出た涙の分、胸の中ががらんどうになった気がした。・・・重い溜息を何度か逃し、あからさまな泣き顔をどうにかしようと化粧ポーチを手に洗面室に向かう。

洗面化粧台の前に立ったとき、キャビネットの歯ブラシ立てがふと目に留まった。ブルーとピンク、色違いの歯ブラシが二本。真新しかった。

初めてきちんと見回せば、ほかは男性用の化粧瓶と整髪料が置かれているだけ。ありのまま受け止めるなら、私のために用意された歯ブラシで。知らなければ素直に喜べた。きっと。

・・・そう言えばこの部屋には幹さんの私物しか見当たらない。結婚相手とここで会ったりはしない・・・?

湧き上がった疑問はすぐに打ち消し、顔ごと洗い流したい心境だったのを、ハードコンタクトを水ですすいで眼に入れ直した。それでほんの少しは、気持ちの濁りを剥がせた気になれた。

見栄えが取り繕える程度に化粧直しをして、・・・したはずなのに鏡に映った姿は生気のない人形みたいで。自嘲の笑みが口許で歪んだ。

今ならまだ。
幹さんを好きになりすぎていないから。

呪文を唱え心を囲い込む。

あの頃の思い出と一緒に閉じ込めてしまえばいい・・・!

そう願うだけが。弱い私のプライドだった。
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