きみがため
樹氷
桜人にお母さんはいなくて、お父さんとふたり暮らしらしい。

だけどお父さんは県外に出張中で、病院に来るのに時間がかかるとのことだった。

実は桜人とはクラスメイトなのだと言うと、お母さんと光は驚いた顔をした。

そして、桜人のお父さんが来るまでの間付き添いたいと伝えると、なにかを察したように、頷いてくれた。

ベッドに横たわる桜人の隣に、そっと腰かける。

夕方が近づくにつれ、徐々に赤っぽくなっていく日が、端正なその横顔を照らしていた。

今になって、ようやく思い出した。

私は子供の頃に、桜人と一度だけ会っている。

お父さんが亡くなる前日のことで、混乱とともに、その思い出は記憶の彼方に葬り去られていた。

風にそよぐ樫の木、芝生、病院の白い壁。

そこで子供の頃の桜人は、本を読んでいた。

光の幼稚園の行事でバタバタしていたお母さんの代わりにお父さんのお見舞いに来たものの、今から検査だからと病室を追い出され、中庭をさ迷っていたところに出くわした。

当時、この入院棟には子供が少なく、年上には見えたものの、子供の桜人を見つけてうれしくなったのを覚えている。

思えば、あの頃から桜人は文学少年だった。

たしか、和歌の話をした。

それから、とりとめのない言葉遊びをした。

桜人の紡ぐ言葉が心地よかったのを、おぼろげに覚えている。

そのとき、どんな言葉を交わし合ったのかは、忘れてしまったけれど――。
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