死のうと思った日、子供を拾いました。
「教授、お久しぶりです」
俺はノックをしてから、二階の端にあった研究室のドアを開けた。
「矢野……戸部もいるのか」
戸部は新太の苗字だ。
言わないと変だと思ったので、真希さんと愁斗のことも手短に説明した。
研究室の中央に置かれた椅子に宮本教授は腰を降ろしていた。
宮本教授は俺と新太を一瞥してから、ばつが悪そうに顔を伏せた。
肩まで伸びた白髪と黒縁の眼鏡が寡黙そうな雰囲気を醸し出している。
研究室は全ての壁が本棚で埋め尽くされていて、本棚の中には国語辞典なみに分厚い心理学の本がところせましに置いてあった。少なくとも千冊以上の本がありそうだ。俺が大学に通っていた時よりも、研究室が狭くなっているような気がする。たぶん本も棚も増えているからそう感じるんだな。
「宮本教授、結婚式中止にしてすみませんでした。これ大したものではないですがよかったら食べてください」
俺は持っていた紙袋の中から箱を一つ取り出した。箱には紅茶味のバームクーヘンが入っている。宮本教授は奥さんと娘と一緒に暮らしているから甘いものの方が良いかと思ってそれにした。
箱を見ると、宮本教授はますます顔を歪めた。
「中止にしたんじゃない。中止にせざるを終えなかったんだろ」
「……はい」
「じゃあそんなものはいらない。ご祝儀だってまだ渡してないんだから」
「でも用意してくれてたんですよね? それに結婚式で着るためだけに、スーツをクリーニングに出したり買ったりしたんですよね?」
「それはそうだが、別にこんなものが欲しくてそうしたわけじゃない」
宮本教授は決して、菓子折りを受け取ろうとしなかった。
教授が見たかったのは、タキシードを着た俺とウェディングドレスを着た夏菜の姿だ。それなのに菓子折りで満足できるハズがない。そうわかっていても渡すのが礼儀だと思っていた。それに夏菜なら結婚式に来る予定だった人にはメールでお詫びをするだけで済ませないで、直接お詫びに伺うと思った。
「どうしても食べていただけませんか?」
俺と目を合わせると、宮本教授はただ首を横に振った。
空気が重い。まるでお通夜のようだ。
「ちゃっちゃと受け取っちゃってくださいよ! これ売り上げナンバーワンなんですから、食べなきゃ損ですよ!」
そうだったか? 店員はかなり好評な菓子だとは言っていたが、売り上げの順位については特に言ってなかった気がするんだが。
「戸部、お前な営業じゃないんだから」
宮本教授が覚めた目で新太を見る。
「え? 俺は営業部ですけど?」
どうやら新太は敢えてボケて、菓子折りを手に取りやすい空気を作ろうとしてくれているようだ。なんだか今日は新太に助けられてばかりで申し訳ないな。
「食えよ。生きる気力がなかった流希が、自分が婚約者だからってどうにか用意したものなんだから」