冷徹御曹司は初心な令嬢を政略結婚に堕とす
彼は資料から顔を上げた姿勢のまま、突然現れた私に首を傾げている。

「勝手に入って来てすみません。ノックをしたんですが、お返事がなかったので」

「別に構わない。集中していたから、ノックの音に気がつかなかったみたいだ。それで? 俺に何か用事があったんじゃないのか」

問いかけられて、私は慌てて頷く。
先ほどまでの思考はいったん脳裏の奥に追いやって、お風呂と着替えを借りたお礼を伝えてから、「用事というか、なんというか、その」と口ごもる。

紙袋を抱えている両手の、ぶかぶかの袖からわずかしか出ていない指先同士を、絡めるようにまごつかせる。

「実は寝室に行きたいんですけど……どの部屋だったか、わからなくなってしまいまして。もし良ければ案内してもらえないかなぁ、と」

告げてから、そろりと上目遣いに窺う。

「寝室に?」

怪訝な様子で問い返され、こくこくと首を縦に振る。

今になって思うが、菊永ホールディングスの取締役副社長を捕まえて頼むような用事じゃない。
こんなんじゃ、世間知らずの箱入り令嬢と揶揄されるのも当たり前である。

二十五歳にもなって、家の中で迷子になるなんて恥ずかしすぎる。穴があったら入りたいくらいだ。
これでも一昨々日までは、社会に出ていたはずなのに……。
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