赤鬼と黒い蝶
 ――翌朝、鳥の(さえず)りで目を覚ます。

 布団の中に信長の姿はなく、あたしは長襦袢のまま上半身を起こす。信長が寝ていた場所はすでに冷たく、布団に信長の温もりは残ってはいなかった。

「帰蝶様、お目覚めでございますか?」

 廊下で多恵の声がし、慌てて布団に潜り込む。

「今朝は随分ゆっくりでございますね。失礼致します」

 多恵はそそくさと部屋に入り、襖を閉めた。

「昨夜、帰蝶様が上様にお声を掛けるようにと仰られ驚きましたが、上様がこちらで一晩過ごされ朝を迎えられたこと、多恵は嬉しゅうございました。光秀殿とのこともございましょうが、やはり帰蝶様は上様のご正室でございますゆえ、夫婦円満がなによりでございます」

 多恵は「ほんによかった、よかった」と繰り返し、布団の横でホロホロと涙を溢した。

「光秀殿も帰蝶様の文に目を通されたはず。上様もすでに出立され、光秀殿が中国攻めで功績を残せば、上様も光秀殿のことを、今までのように(ないがし)ろには致しますまい」

 信長が……。
 出立……!?

「多恵! 上様がすでに出立されたとはまことか!」

「ひ、ひゃああ-!? 帰蝶様が喋ったあー!?」

 多恵は驚きのあまり腰を抜かし、両手でゴシゴシと目を擦り、亀のようにぬーっと首を突き出し鼻先がくっつかんばかりに、あたしに顔を近づけた。

「こ、これは……紅殿!? まさか、帰蝶様と夜伽を!? いや、そんなはずはございませぬ。今朝早く上様がこの部屋から出られるところを目にしたのじゃ。まさか帰蝶様の寝所で上様と紅殿が……!?」

 混乱した多恵は、両手で頭を抱えアタフタと狼狽えている。

 あたしは多恵の腕を掴んだ。

「多恵! 質問に答えろ! 上様の出立は明日のはず。今朝出立されたとは、どういうことだ!」

「うわわ、紅殿に乳房が……!? 紅殿は女でござりますか!? いや、男でございますよね!? なぜ、そのような恰好を!? いや、なぜ女のような乳房が……!?」

 ゴチャゴチャと煩く騒ぎ立てる多恵に、あたしは声を荒げる。

「そんなことはどうでもよい!」

「出立を早められたのは、上様の気まぐれでございましょう。蘭丸殿が僅かな小姓衆を集め、夜が明けぬ前に出立されました」

「……なんと」

 ――どうして……?

 どうして、あたしをおいて行くの?

 昨日約束したじゃない。

 『わしと生涯添い遂げよ』と、あたしに言ってくれたじゃない。

 あれは……全部、全部、嘘だったの……。
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