溺愛音感
てっきり受付でスマホを渡して終わりだと思っていたのでうろたえてしまった。
が、視界の片隅に映る警備員の姿に、不審な行動をしてはいけないと思い、差し出されたカードを受け取る。
ギクシャクした足取りで、エントランスの奥にあるエレベーターホールへ向かい、ちょうどやって来たスーツ姿の男性の集団と一緒に乗り込んだ。
音もせず、揺れもしないエレベーターに感動。
降りていく背中を何度か見送って、ひとりきりになった次の階でエレベーターを降りた。
てっきり、ワンフロア「社長室」なのだと思っていたら、そうではないらしい。
難しい漢字が書かれたプレートを確認しながらドアからドアへとさまよい、ウロウロする。
ところが、いくら探しても「社長室」らしきものが見当たらなかった。
(な、ない……ええと……とりあえず、電話!)
ビル自体はまちがっていないのだから落ち着け、と自分に言い聞かせ、マキくんのプライベート用の番号に架けてみたが、応答してくれない。
(どうしよ……)
誰かに社長室はどこか訊きたいけれど、あいにくフロアをウロウロしている人は誰もいなかった。
閉まっているドアをノックするのも躊躇われる。
(ビル内で迷子……わたしって……ダメ犬かも)
がっくり項垂れ、途方に暮れた時、ふとコーヒーの香りを感じた。
導かれるようにして辿り着いた先には、カフェがある。
(オフィスに……カフェ?)
ドリンクとフードメニューが書かれた看板を掲げるカウンターの向こうでは、若い女性店員が忙しそうに立ち働いているから、フェイクではなさそうだ。
カフェ内に設置されたポップでおしゃれな家具は、KOKONOEの製品と思われる。
「いらっしゃいませ!」
元気のいい声に迎えられ、ふらふらとカウンターへ近づいた。
社員用だからか、メニューは一般的なカフェより価格が安く設定されているようだ。
ちょうど喉が渇いていたし、マキくんからの折り返し待ちだし、と言い訳しながらカフェモカをコールドで頼む。
(美味しい……)
座り心地のいいソファーで甘さと冷たさを堪能していたら、背の高い男性がふらりとカフェに現れた。
まっすぐカウンターへ向かうその横顔に見覚えがあり、思わず「あっ」と声を上げる。
きちんと整えられた黒髪に、涼しげな切れ長の目。
マキくんの妹さんの「元」で「未来」の夫だ。
「……?」
カウンターで注文しようとしていた男性は、怪訝な顔をしてこちらを振り返る。
慌てて目を逸らし、俯いた。
(こ、こっちは知っていても、むこうは知らないんだった……)
店員がオーダーした品を渡す様子を耳で捉えながら、「早く立ち去って!」と心の中で祈る。
男性の「ありがとう」という声が聞こえ、ほっとしながら「いい声……バリトンかなぁ」などと呑気な感想を抱いていたら、いきなり呼ばれた。
「ハナ?」