溺愛音感
すれ違う社員たちの視線を痛いほど感じながらエレベーターホールへ舞い戻る。
マキくんなら、注目されても無視するのだろうが、雪柳さんは目が合えば愛想よく挨拶をし、ひと言ふた言言葉をかけていく。
仕事のことだったり、プライベートのことだったり。
きちんと相手の名前を呼び、気さくに話す姿はいかにも「デキる上司」。
女性社員だけでなく、男性社員からも慕われていそうだ。
「社長室は十九階、このフロアの二つ上だ」
到着したエレベーターに乗り込み、雪柳さんが首から下げていたIDカードをカードリーダーにかざすと、ブランクだったボタンにずらりと数字が表示された。
「ゲスト用だけでなく、社員のIDカードも基本的に目的の場所、業務に関係のない場所には入れないよう制限がかかっている。社員でも、役付き以外は自由に十九階へは行けないようになっているんだ。十七階で、もう一度カードをかざすように言われただろう?」
「そうだったかも……」
(話をちゃんと聞いていなかったわたしが悪いんだけど……でも、こんな仕組み、ハイテクすぎるでしょぉ……)
十九階でエレベーターを降りて左手に進めば、廊下の突き当りはパイン材と思われる大きな扉。その向こうには秘書用の前室、奥にガラスの壁で仕切られた社長室があった。
奥の部屋で立ったまま話しているのは、マキくんと若い女性だ。
雪柳さんは、開いていたドアを軽くノックし、返事を待たずに中へ入る。
「柾、おまえの愛犬を連れて来てやったぞ」
目を見開いたマキくんは、家にいる時とは別人――初めてクロークで会った時のような冷たい声で問う。
「ハナ、どうして蓮と一緒にいるんだ? まっすぐ社長室へ来るように言われなかったか?」
「い、言われたけど……え、ええと、その、エレベーターで、まちがって、社長室が見つからなくて……」
咄嗟に説明できず、しどろもどろになるわたしを雪柳さんが遮った。
「降りる階をまちがえたんだよ。おまえに電話しても繋がらなかったから、カフェで折り返しを待っていた。そこへ、偶然俺がやって来た。単純な話だ。あとで届けると伝言しただろう?」
「伝言? 聞いていない」
マキくんが訝し気な表情をすると傍らの女性がすかさず謝罪した。
「申し訳ありません、社長。雪柳部長が、仕事の話ではないとおっしゃったので、後回しにしておりました」
女性は、ベリーショートの黒髪に黒のパンツスーツ姿という恰好だが、白い肌によく映える赤い口紅、さりげなく首元に光る控えめなダイヤのネックレスと上品なピアスがほどよい女性らしさを漂わせている。
整えられたネイルは赤のグラデーション、根元に小さなストーンがいくつかあしらわれ、シミひとつないきれいな手をしていた。
若いけれど、落ち着きがある。
醸し出す雰囲気や容姿は「取締役社長」とお似合い。公私共に、御曹司の傍にいても違和感がないだろう。