溺愛音感
「中村のせいじゃない。俺が、『重要案件』だと言えばよかったんだ」
雪柳さんがニヤニヤしながら彼女を庇うと、マキくんはむっとした顔で手を差し出した。
「ハナ。スマホは?」
「え、あ、これっ……」
慌てて肝心のスマホを差し出すと、マキくんはジャケットの内ポケットへしまいこむ。
「社長……おっしゃってくだされば、わたしが部屋へ取りに伺ったものを。何のために秘書がいるとお思いですか?」
中村、と呼ばれた女性はどうやら社長の秘書らしい。
「それじゃ意味がないんだよ、中村。柾はハナに会いたかっただけ、届けさせたのは口実だ」
「口実……」
雪柳さんの言葉に目を見開いた中村さんは、大きな黒い瞳でわたしをじっと見つめた。
そのまなざしは、礼儀正しい態度や口調とは裏腹に、不躾なものだった。
かつて、何度も体験したからわかる。
服、髪、化粧っ気のない顔、そして……短く整えられた爪まで。
仔細に捉えて値踏みし、ジャッジを下すのだ。
自分より、「上」か「下」か。
こちら側の人間か、あちら側の人間か。
無表情にも見える顔、その赤い唇に微かな笑みが浮かんだのに気づいたのは、おそらくわたしだけだろう。
彼女の中で、わたしは「下」、彼女と同じ側には立てないと位置付けられたようだ。
(まあ……当然、だよね。誰がどう見たって、わたしとマキくんじゃ釣り合わないし)
こんな大きなビルにオフィスを構える大企業の社長と、人生の大半を路上で過ごしてきた落ちぶれたヴァイオリニスト。
どこを探したって、共通点なんかない。
(ちゃんと、わかってる……)
努力だけでは、好きなだけでは、どうにもならないこと、変えられないことがある。