溺愛音感


(おつかい、果たしたし。……もう、帰ってもいいよね?)


これ以上ここに留まりたくない気持ちが強烈に込み上げる。

スマホを渡し、空になった手をぎゅっと握りしめた時、雪柳さんが思いがけないことを言い出した。


「柾。おまえはまだ仕事があるだろ? 俺がハナにランチをご馳走する。行こう、ハナ」

「おい、蓮っ! 待て! 俺も一緒に……」

「社長。このあと、S社の社長との会食、Y社の取締役との会談があるのをお忘れで?」


中村さんの言葉に舌打ちするマキくん。

ちょうどそこへ電話が架かって来たのを潮に、雪柳さんが優しくわたしの腕を掴んだ。


「しっかり働いてくれ、社長」


電話中のマキくんは、あからさまに怒りの表情を浮かべたが、さすがに仕事を放り出したりはできないようだ。

わたしを社長室から連れ出した雪柳さんは、エレベーターホールへ戻るなり、溜息を吐いた。


「悪かったな。嫌な思いをさせた」

「あの……?」

「男同士の出世争いもえげつないが、女性同士のマウンティングもえげつないからな。特に、ハナのようにかわいいと、標的にされやすい」


彼が気づいているとは思ってもみなかったので、ちょっと驚いてしまった。


「中村は、柾の大学の後輩なんだよ。語学も堪能で、仕事も早いんだが……少々、行き過ぎのところがある。ただ、どんなに彼女が馴れ馴れしい態度を取ろうとも、柾にとってはあり得ない相手だ。安心していい」


(あり得ない、とはどういう意味……?)


首を傾げるわたしに、雪柳さんは断言した。


「柾は、社内の人間には絶対に手を出さないと決めている。四六時中一緒にいても、中村を含め、『KOKONOE』の社員とどうこうなる可能性は『ゼロ』だ。ところで、何が食べたい?」

「え?」

「ランチをご馳走すると言っただろう? まさか、あの場を切り上げるためだけの嘘だと思っていたのか?」

「はい」

「心外だな。誘った以上は、ちゃんとご馳走するよ」

「でも……」

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