溺愛音感
「日本食でも大丈夫なら、この近くに手打ち蕎麦を出す店があるんだ」
「手打ち……お蕎麦……」
ごくりと唾を飲み込むわたしを見て、雪柳さんは目を細めて笑った。
「決まりだな」
知らない人から餌をもらってはいけないと言われているけれど、雪柳さんはマキくんの妹さんの元で未来の夫だ。
(知らない人、ではないよね?)
内心言い訳をしつつ、雪柳さんにくっ付いて、オフィスビルから歩いて五分とかからない場所にあるというお店へ向かう。
シンプルな藍色の暖簾が揺れる入口を潜れば、だしのいい香りが鼻をくすぐる。
スタッフはたすき掛けの和装姿、店の内装も純和風。
案内された個室の椅子席は、壁に日本画が飾られ、抑えめの照明が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「どれでも好きなものを選ぶといい」
そう言われても、差し出されたメニューはうねうねとした文字で書かれていて、判読不能。
眉根を寄せて近づけたり遠ざけたり、斜めにしたりしていたら、ひょいっと雪柳さんがメニューを取り上げ、裏返した。
「こっちなら読めるか?」
裏面には英語で書かれたメニューがある。
嬉しくなって何度も頷き、オススメの「鴨せいろ」を頼むことにした。
「ハナは、もしかして日本育ちではない?」
「はい。父が、日本人じゃないので」
わたしの場合、父親は日本人ではないが、ちょっと明るい茶髪で小柄、目鼻立ちも外国人と言い切れるほど彫りが深いわけでもないので、日本人で通用しないこともなかった。
「それにしては、日本語が上手いな? こちらへ来てどれくらいになるんだ?」
「一年くらい」
「一年でそれだけ話せるなんて、語学が得意なんだな」
「話すのは何とかなっても、漢字を読んだり書いたりするのは苦手だけど……」
「日本人だって、正しく書けるわけじゃない。ちなみに、柾を基準にしてはダメだぞ。普通とはかけ離れすぎている」
「かけ離れすぎ……?」
あらゆる意味で、マキくんは一般人ではないと思うけれど、雪柳さんの言葉にはもっと深い意味があるように聞こえた。