捨てられたはずが、赤ちゃんごと極上御曹司の愛妻になりました
 違う。

 これは記憶に新しい出来事だから。
 時間が経てばもっと冷静になるはずだし、会う機会もないからこのまま現実だったかどうかもわからず、おぼろげな思い出になっていく。

 だから、今だけ。こんな思いで過ごすのは。

 一心不乱に部屋を整え、ひと通り終えた私はコーヒーを一杯だけ飲んだ後、行き先も決めずに家を出た。

 ふらりと近所を歩く。
 五月中旬ともなると、どんどん陽も長くなってきて夕方をゆったり過ごせる気がする。

 あてもなく歩みを進めていくうち、街並みが夕暮れにのまれていく。赤々と照らす太陽が自分の影を長く伸ばしていた。

 もうどのくらい来ただろうか。距離にしたら三キロくらい歩き続けていた気がする。

 そろそろ引き返すタイミングを考えなければ、と足を止めた先に一軒のラーメン屋が目に入った。スマホで時間を確認したら、六時半を過ぎている。

 帰りは最寄りの駅へ行くバスに乗ればいいか。
 駅から自宅までなら十五分くらいだから問題ないだろう。今夜は楽をしてラーメンを食べて帰ろう。

 そう決めて一歩踏み出したときだ。ジーンズのポケットに仕舞いかけたスマホが高い音を出した。
 私は動きをぴたりと止め、もう一度スマホを見る。ディスプレイを確認した途端、大きな動揺に襲われた。

 着信主は【佐渡谷 拓馬】となっている。

 どうして。

 一番に思ったのは疑問だ。しかしすぐに、昨日と同様に仕事にかかわる話に違いないと決めつけた。

 そうだとして、この着信をどうすべきだろうか。

 私が迷う間もなお、着信音は続いている。
 私はついに思い切って、彼からの通話を繋いだ。
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