情熱
電車を1本見送った分だけ遅くなって宗一郎のマンションを訪れた。
彼は何も気にしていないという様子で、先に一人でビールを飲んでいたようだった。
「私のこと待っていないでね」
里穂はよくそう言った。そして先にビールを飲んでいる姿は、その言葉を、宗一郎はもう里穂に言わせたくないのかなと思わせるものだった。気を遣ってしまうのは持って生まれた性格だろう、昔からだからと、いつだったか貴広が宗一郎のことについてそう言った。

彼が買っておいてくれた軽い赤ワインは里穂が食べたいと思って買ったチキンのパテと相性がよかった。
ワインと料理の相性の良いことをマリアージュというフランス人のセンスについての話から、ついでに里穂は聞いた。
「宗は、結婚を考えるような人はいるの?」
「いそうに見える?」
「わからないわ」
里穂は笑った。
丁寧で親切な宗一郎は、女性を喜ばせることも上手そうではあった。だから、いくらでも女の人と並んで歩く姿は想像できる。でも結婚は、里穂の中では大人のすることだった。だからまだ学生時代から親しくしてきた彼が大人のするようなことをするのはなんだか違和感があるように思えてしまうのだ。
それに、一緒にいるときにそういう感じを味わったことが、一度もなかった。そういう感じというのは、彼が妻や子どもといる姿のことだ。想像できなかった。

それに合わせたように彼は少し幼い笑顔で言った。
「そんな気にならないよ。社会人としてもスタートしたばかりだし。それに、実は大学院に戻ろうかとも思っているんだ。」
そうなの?と驚いて里穂が聞くと、彼は淡々と言った。
「博士号とったって使い物になるかわからないけど、せめてもうちょっと学校に行ったほうがいいかなって。学びたい、という欲求があるうちにね。そのくらい、本当に、まだまだなんだ。だから、社会人として一人前にもならないのに、結婚しているじゃないよ。」
「そう、大変なのね」
知らない業界のことなので、里穂はそのくらいのことしか言えなかった。宗一郎は控えめな笑顔のまま静かに言った。
「だから、自分なんかより貴広のほうがずっと大人だと思うよ。」
その名前を出されて、里穂の表情は固まってしまう。
この話の流れでその名前をどうして口にするのだろう、と思う。
「立派だよ。家庭を持とうとすることは、すごいことだと思う」
静かにグラスに残ったワインを口に運ぶ里穂に宗一郎が言った。
「今度会ったら、よろしく言っておいて」
よろしくって、結局どういうことなのだろうと思いながら里穂は、うん、と言った。先ほど電話で話したことも、明日会う約束をしたことも、言わないまま。なんとなく言えないまま。

それからテーブルの上のものを一通り片付けると、宗一郎はまたあくびをした。とても眠そうだった。
宗一郎の会社は里穂よりも二時間始業時間が早いので、単純に考えて里穂よりもおよそ二時間は早く起きている。そうやってあくびをしながら、何度こうして話に付き合ってもらっただろう。眠くないよと笑って、何度ごまかされただろう。

里穂はベッドで寝るように言ったが、彼はどうしても今日のうちに読みたい本があると言って、ソファに横になってタブレットを手に持った。

結局ベッドを借りて、ソファのほうに顔を向けた里穂が電子書籍って目に悪そうと言うと、普通の本より明るくてよく見えて便利だと彼は言い、真剣にその薄っぺらい機械を見つめていた。
そしてその横顔を、里穂は見ていた。柔らかなブランケットに身を包んで楽な姿勢で、今日はもう何もしないでよくて、一日が無事に終わろうとするこの瞬間に、安心した気持ちで、親しい人を見ていられるというのは、悪くない。実際、宗一郎のその横顔を里穂はとても好きだった。

「私は紙の感触が好きよ。めくるときの感じとか、古い本の少し湿気を含んだ匂いとかも」
ベッドの中からそう言って、まどろみながら里穂は彼の様子を見ていた。
「日本は湿度が高いからね」
宗一郎の言葉にそうねと里穂はつぶやいて、そういえばロンドンも雨が多いなどと思いながら口にはせず、今はそういう話がしたいわけではなくて、ただもう少しだけこうしていたい気がしながら「おやすみ」と言った。
そして宗一郎の「おやすみ」を聞いてすぐに里穂は眠りについた。
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