情熱
朝晩の通勤時は肌寒くて何か一枚上着が欲しいような10月最初の金曜日だった。
その日、終業時刻を過ぎたオフィスには佐々木さんと里穂だけが残っていた。
「里穂ちゃん、もうすぐ21時だよ。帰らないの?」
この会話をすることは、よくある気がして互いに笑った。
「一緒にご飯食べて帰らない?」
時折、佐々木さんは里穂を誘ってくれた。そういうとき、たまに二人で食事をした。さらっと軽く、1時間とかそのくらいの短い時間で。お互いに負担にならない程度に、近くのお店で美味しいものを食べてお腹を満たして、仕事や日々のことを少し話して心を満たして、翌日も頑張れるくらいに。
結婚も離婚も経験して、専業主婦も味わって復職した彼女は、今は仕事が楽しいと言った。仕事だけに没頭できると。でも決して結婚を否定していなかった。別れた夫のことも悪く言うことはなかった。ただ自分には向いていなかっただけだと言った。いつかまた結婚に向く日がくるのかもしれないけど、とも。
「結局、どうにでもなるものよ」
少しも後悔のないきれいな笑顔で、佐々木さんはよくそう言った。
「今日は約束があって」
その日、里穂がそう言うと、佐々木さんは少しだけいつもより口角をあげて微笑んで言った。
「週末の夜だもんね。楽しんで。また来週ね。お疲れ様」
余計なことを聞かないところが彼女らしいと思いながら、里穂はあと30分、と思って手を動かす。リミットを決めた方が作業ははかどる。なんだってそうだ。いつでもいいなんて言われたら、いつでもどうでもよくなる。いつまでも待つなんて言われたら、いつまでも返事をしないでいたくなる。終わりがあるからこそ、人はそのことにきちんと向き合って、必死になれる。
宗一郎に会うのは夏以来だった。
その日は、やはり仕事帰りに里穂が宗一郎のマンションを訪れることになっていた。
里穂の職場の近くにあるパン屋のバケットは、自分以上に宗一郎が気に入っていたので、お土産によく買った。これにバケットに塗るパテ、あればスモークサーモンとか生ハムとかチーズとか塩気のあるものを少し、それと生野菜がいくらかあればもう十分だった。
里穂と宗一郎が二人でいるときの食事にたいしたものはない。会話がメインだから、簡単に食べられて美味しいものが少しあればよかった。
ホームで電車を待っているとき、スマートフォンを見ると着信があったようなのでその履歴を見た。
その相手は貴広だった。平日の夜にこんなふうにいきなり電話をしてくるなんて珍しいことだった。
電車を一本見送るつもりで、折り返し電話をすると、彼はすぐに電話に出た。
「どうしたの?間違い電話?」
里穂の言葉に貴広は笑った。間違えないよ、と言って。
「いや、急に時間できたから。会えないかなって思って。」
「そんなこともあるのね」
「ごくたまに」
貴広はよく働く。ほとんど毎日飲み歩いていると言うが、それは全部仕事の延長でそうしているのだ。古き良き商社は、そういう昔ながらの人付き合いを大事にしていた。
「でも、ごめんね。今日は予定を入れてしまっていたの。」
申し訳なさそうに里穂が言って、電車が動く騒がしい音がして、明らかに外にいることは伝わっただろう。
「いや、大丈夫。急だったし。もし会えたらいいなと思っただけ。」
全く気にしていないという様子で、明るい感じで、いつもの貴広の声に里穂は安心した。
明日の予定は?と聞かれて、夜ならと里穂は言って約束をして電話を切った。
会えないと一言告げれば終わるだけの話を、待ち合わせの場所を決め、時間を決め、食べたいものを話して、続きはまた明日と簡単に未来をつくってしまう。でもそれは貴広が日本を離れるまでの、どうあがいても期限のある未来。決して永遠にそうしていられないことわかっていたけども。
その日、終業時刻を過ぎたオフィスには佐々木さんと里穂だけが残っていた。
「里穂ちゃん、もうすぐ21時だよ。帰らないの?」
この会話をすることは、よくある気がして互いに笑った。
「一緒にご飯食べて帰らない?」
時折、佐々木さんは里穂を誘ってくれた。そういうとき、たまに二人で食事をした。さらっと軽く、1時間とかそのくらいの短い時間で。お互いに負担にならない程度に、近くのお店で美味しいものを食べてお腹を満たして、仕事や日々のことを少し話して心を満たして、翌日も頑張れるくらいに。
結婚も離婚も経験して、専業主婦も味わって復職した彼女は、今は仕事が楽しいと言った。仕事だけに没頭できると。でも決して結婚を否定していなかった。別れた夫のことも悪く言うことはなかった。ただ自分には向いていなかっただけだと言った。いつかまた結婚に向く日がくるのかもしれないけど、とも。
「結局、どうにでもなるものよ」
少しも後悔のないきれいな笑顔で、佐々木さんはよくそう言った。
「今日は約束があって」
その日、里穂がそう言うと、佐々木さんは少しだけいつもより口角をあげて微笑んで言った。
「週末の夜だもんね。楽しんで。また来週ね。お疲れ様」
余計なことを聞かないところが彼女らしいと思いながら、里穂はあと30分、と思って手を動かす。リミットを決めた方が作業ははかどる。なんだってそうだ。いつでもいいなんて言われたら、いつでもどうでもよくなる。いつまでも待つなんて言われたら、いつまでも返事をしないでいたくなる。終わりがあるからこそ、人はそのことにきちんと向き合って、必死になれる。
宗一郎に会うのは夏以来だった。
その日は、やはり仕事帰りに里穂が宗一郎のマンションを訪れることになっていた。
里穂の職場の近くにあるパン屋のバケットは、自分以上に宗一郎が気に入っていたので、お土産によく買った。これにバケットに塗るパテ、あればスモークサーモンとか生ハムとかチーズとか塩気のあるものを少し、それと生野菜がいくらかあればもう十分だった。
里穂と宗一郎が二人でいるときの食事にたいしたものはない。会話がメインだから、簡単に食べられて美味しいものが少しあればよかった。
ホームで電車を待っているとき、スマートフォンを見ると着信があったようなのでその履歴を見た。
その相手は貴広だった。平日の夜にこんなふうにいきなり電話をしてくるなんて珍しいことだった。
電車を一本見送るつもりで、折り返し電話をすると、彼はすぐに電話に出た。
「どうしたの?間違い電話?」
里穂の言葉に貴広は笑った。間違えないよ、と言って。
「いや、急に時間できたから。会えないかなって思って。」
「そんなこともあるのね」
「ごくたまに」
貴広はよく働く。ほとんど毎日飲み歩いていると言うが、それは全部仕事の延長でそうしているのだ。古き良き商社は、そういう昔ながらの人付き合いを大事にしていた。
「でも、ごめんね。今日は予定を入れてしまっていたの。」
申し訳なさそうに里穂が言って、電車が動く騒がしい音がして、明らかに外にいることは伝わっただろう。
「いや、大丈夫。急だったし。もし会えたらいいなと思っただけ。」
全く気にしていないという様子で、明るい感じで、いつもの貴広の声に里穂は安心した。
明日の予定は?と聞かれて、夜ならと里穂は言って約束をして電話を切った。
会えないと一言告げれば終わるだけの話を、待ち合わせの場所を決め、時間を決め、食べたいものを話して、続きはまた明日と簡単に未来をつくってしまう。でもそれは貴広が日本を離れるまでの、どうあがいても期限のある未来。決して永遠にそうしていられないことわかっていたけども。