情熱
翌朝、里穂は宗一郎の家を出て自宅に帰ってまず最初に熱いシャワーを浴びて、コーヒーとマフィンをほおばった。遅い朝食ながら、ようやく朝、という感じがする。
貴広との約束まではまだ時間があったので、髪を乾かしながら古い本を一冊読むことにした。結末がわかっている本は読み終えられなくても気にならないので、予定がある前に読むのにちょうどいい。そしてその本をよく読んでいた頃に戻れるような感じがするのもよかった。
手に取ったシャミッソーの『影をなくした男』は、幼いころ父からもらった一冊だった。
難しい印象のあるドイツ文学のなかでも比較的読みやすいと思ったもののひとつで、作者の訴えようとすることも子供ながらにわかる気がすると思い、親しんでいたものだった。
懐かしい気持ちで里穂は取引によって影をなくした男が、新たな取引に応じず、今の自分を受け入れて、新たな生き方を見つけていく物語を再び読んだ。
実際のところ、影は、あったほうがよかった。
失うべきでないものを手放して、傷ついても、悲しんでも、それでも生きていく主人公を里穂は、勝手ながら、好きだった。尊敬に近い気持ちで、強く生きて欲しいという祈りにも似た気持ちで、里穂は影をなくした男を想った。
その夜、貴広とは豆腐メインの会席料理を食べた。
日本食らしいものを食べよう、と言われたのだ。水と大豆からこだわり抜いているという老舗の豆腐を楽しんで、日本酒もいくらか味わって、いつも通り、最近日常の話をした。天気のことや暮らしのこと。急に涼しくなったから鍋料理がおいしいねとか、今日の朝食は何だったのかとか、そんなこと。
思いのほか核心に触れる話はなく、こんなことを繰り返していてもいいのなら、ずっとそうしていたいと里穂は思った。続いていかないことがわかっているからこそ。
食事を終えて店を出ると、貴広は言った。
「ちょっといいワインもらったんだけど飲みにくる?」
飲みに来る、というのが彼の家だということは言われなくてもわかった。
時計は午後十時に近かった。いくら彼の家がここから近くても、それは気軽に返事をできるものではない気がした。
「もう夜遅いから」
里穂が終電を嫌うのを知っているはずなので、そういう断り方は誰も傷つかないはずだった。それなのに、自分で言って自分で心が重く感じた。昨日は宗一郎のベッドを借りて寝ていたというのに。貴広も同じ男友達のはずなのに。貴広の部屋で二人きりになることは宗一郎の部屋で二人きりになることと、明らかに違った。
その意味を里穂はわかっていた。彼が自分を女として見ていることを知ってしまっていたからだった。
断りたさと申し訳なさとが入り混じった里穂の表情を見て、その気持ちがわかるというように貴広が笑って言った。
「怯えなくたって別に何もしないって。帰りのタクシーもちゃんと呼ぶよ。もうちょっと話がしたいだけ。せっかくのいいお酒を一人で飲むのはもったいないんだ」
一人で飲むのがもったいないお酒、というのは、わかる気がした。誰かと分かち合いたいものを自分も知っていると里穂は思った。
そしてその言葉を、本当?というように、里穂がじっと見つめると貴広はまた笑った。
「俺は里穂に嫌われるようなことしたくない」
そんなことを親しい友人に言われたらついていかないわけにいかない。
里穂は笑って言った。
「じゃあ、いいワインを飲ませてもらおうかしら。」
貴広は喜んで、と言って通りかかったタクシーを止めた。
貴広との約束まではまだ時間があったので、髪を乾かしながら古い本を一冊読むことにした。結末がわかっている本は読み終えられなくても気にならないので、予定がある前に読むのにちょうどいい。そしてその本をよく読んでいた頃に戻れるような感じがするのもよかった。
手に取ったシャミッソーの『影をなくした男』は、幼いころ父からもらった一冊だった。
難しい印象のあるドイツ文学のなかでも比較的読みやすいと思ったもののひとつで、作者の訴えようとすることも子供ながらにわかる気がすると思い、親しんでいたものだった。
懐かしい気持ちで里穂は取引によって影をなくした男が、新たな取引に応じず、今の自分を受け入れて、新たな生き方を見つけていく物語を再び読んだ。
実際のところ、影は、あったほうがよかった。
失うべきでないものを手放して、傷ついても、悲しんでも、それでも生きていく主人公を里穂は、勝手ながら、好きだった。尊敬に近い気持ちで、強く生きて欲しいという祈りにも似た気持ちで、里穂は影をなくした男を想った。
その夜、貴広とは豆腐メインの会席料理を食べた。
日本食らしいものを食べよう、と言われたのだ。水と大豆からこだわり抜いているという老舗の豆腐を楽しんで、日本酒もいくらか味わって、いつも通り、最近日常の話をした。天気のことや暮らしのこと。急に涼しくなったから鍋料理がおいしいねとか、今日の朝食は何だったのかとか、そんなこと。
思いのほか核心に触れる話はなく、こんなことを繰り返していてもいいのなら、ずっとそうしていたいと里穂は思った。続いていかないことがわかっているからこそ。
食事を終えて店を出ると、貴広は言った。
「ちょっといいワインもらったんだけど飲みにくる?」
飲みに来る、というのが彼の家だということは言われなくてもわかった。
時計は午後十時に近かった。いくら彼の家がここから近くても、それは気軽に返事をできるものではない気がした。
「もう夜遅いから」
里穂が終電を嫌うのを知っているはずなので、そういう断り方は誰も傷つかないはずだった。それなのに、自分で言って自分で心が重く感じた。昨日は宗一郎のベッドを借りて寝ていたというのに。貴広も同じ男友達のはずなのに。貴広の部屋で二人きりになることは宗一郎の部屋で二人きりになることと、明らかに違った。
その意味を里穂はわかっていた。彼が自分を女として見ていることを知ってしまっていたからだった。
断りたさと申し訳なさとが入り混じった里穂の表情を見て、その気持ちがわかるというように貴広が笑って言った。
「怯えなくたって別に何もしないって。帰りのタクシーもちゃんと呼ぶよ。もうちょっと話がしたいだけ。せっかくのいいお酒を一人で飲むのはもったいないんだ」
一人で飲むのがもったいないお酒、というのは、わかる気がした。誰かと分かち合いたいものを自分も知っていると里穂は思った。
そしてその言葉を、本当?というように、里穂がじっと見つめると貴広はまた笑った。
「俺は里穂に嫌われるようなことしたくない」
そんなことを親しい友人に言われたらついていかないわけにいかない。
里穂は笑って言った。
「じゃあ、いいワインを飲ませてもらおうかしら。」
貴広は喜んで、と言って通りかかったタクシーを止めた。