情熱
11月末の夜だった。
特にこれと言って用事があるわけではなかったが、なんとなく話がしたくて、話のネタに自分が関わった新刊を1冊持って、里穂は宗一郎のマンションを訪れた。
その日も、前回会ったときと同じように、彼は眠そうだったので、里穂は申し訳ない気持ちになった。眠くないよと言われれば言われるほどに。
そしてこういうときに選ぶ相手が桃子ではなく、他の女友達でもなく、宗一郎であることに、里穂は彼をとても好きなのだと自覚する。
それは桃子がいつだったか言った「好きなのかと思ってた」よりも軽く、貴広が妬いてしまう「宗だから」とというものよりもずっと軽い感覚だと思っていた。
実際に二人でいても、昔と変わらない。何も変わっていない。そのことの安心感は、ここだけで分かち合えればいいと思っていた。
その日は、いつもより宗一郎は眠かったのかもしれない。疲れていたのかもしれない。
いつも通りのバケット、パテ、チーズ、生野菜をつまみながら、新しく出た書籍を見せながら仕事の話をしていた里穂に宗一郎が言った。
「里穂の今の生活の中心は仕事みたいだね」
その言葉に里穂は「宗だってそれは同じでしょう。それに一週間の7日間のうち5日間は出勤してるんだもの。どうしても仕事が中心になっちゃうわ」と笑って言った。
その言葉に「悪いことじゃないけど」と言って、宗一郎はつられるように微笑んで見せた。
そしてゆっくりとグラスを口元から話して、静かに言った。
「貴広が日本にいる時間はもう限られているから、そのことは、忘れないでやって」
その言葉に、里穂は何も言えなくなり、手元のチーズも動かせなくなってしまう。わかっていた、そんなことは。忘れてなんかいない、ずっとわかっている、と言いたかった。でもそのことを宗一郎に言われたくなかった。
「私のしていることって、間違いなのかしら」
チーズを口元に運べないまま、里穂は言った。少しだけ、嫌味のように聞こえたかもしれないと思って、里穂は視線を宗一郎からそらした。
「間違いとか、そういう話じゃないよ。」
宗一郎はいつもと変わらない笑顔を見せた。
「じゃあ、どういうこと?わからないわ。どうしてそんなことを宗が言うの?貴広に何か言われたの?」
「貴広は何も言ってないよ」
「じゃあ何で?」
もう一度視線を宗一郎に戻す。彼はわずかに困ったような顔をしていたように見えた。長年付き合ってきて、初めて見る顔のようだった。どうしてそんな顔をするの、と、言いたいのに言えなかった。彼もそうだったかもしれない。ただいつものように笑って日常を分かち合えればいいと思っていたから。
困惑した顔を見せる里穂の胸の内を知ってか知らずか、宗一郎は言った。
「きちんと向き合って欲しいと思っただけ」
そのことに、里穂は、向き合っていない、と言えなかった。
いくら仕事できちんとしても、どれだけ丁寧に敬語を使って大人のマナーを守っても、ここでこうしているときは、昔のままでいられるような気がしていた。それでも‘今’と向き合うように言われることは、宗一郎からそう言われることはたまらなかった。いつだってずっと一緒にいてくれると思ってしまっていた。
宗一郎は控えめに笑ったまま、その丁寧な笑顔を崩さずに静かに言った。
「本当にね、昔から貴広は里穂が好きなんだよ。どんなに他の女の子と親しくしても、彼にとっては、絶対に里穂、だったんだよ。わかっているだろうけど。」
その言葉に里穂は困ったように笑った。なんで宗一郎がそんなことを言うの、と思いながら。
「私にロンドンに行って欲しいみたい」
そう言って里穂が笑うと、宗一郎もまた笑った。その笑顔は見慣れた品のある彼らしいものだった。いつも通り、というような笑顔に互いに安心した雰囲気があった。
「そういうわけでもないんだけどね」
じゃあどういうこと、と思いながら、その胸の内を悟ったように宗一郎は言った。
「ロンドンに行く、行かないの話だけじゃなくてさ。さっき言った通り。きちんと向き合って欲しいっていう、いつまでもこのままでいられないっていう話だよ。」
「案外厳しいことをいうのね」
つまらなそうに里穂は残っていたチーズの最後のひとかけを口に放り込んだ。テーブルの上が少しずつ片付いてゆく。
「この距離だからこそね」
宗一郎が言って、二人で笑った。
わかっていた、そんなことは。それでも永遠にこうしていられないことは、わかっていたのだ。
でももう少しだけと思いながら、里穂はその夜も宗一郎のベッドを借りて、ソファで横になって電子機器を眺める彼の横顔を見ていた。相変わらずきれいなその横顔は、光で白く照らされていた。見慣れた光景と言えるほどでもないかもしれないが、見慣れない光景と言えるほどでもない、何度も繰り返してきた場面。
ふと、貴広の言葉を思い出す。
「好きな女が目の前で寝てて何もしないでいられない」
もう少ししたら里穂は眠ってしまうだろう。それでも何もしないでいられるこの関係。ただそばにいるだけでいい。失いたくない。そのことの気楽さと貴重さ。
でもきっともう次に会うときは、今とは同じではないかもしれない、とも思っていた。わずかな予感として。なんとなく。同じ気持ちでは会えていない気がしていた。
「宗は、私にロンドンに行って欲しい?」
行って欲しいとも行かないで欲しいとも彼が言わないことを里穂はわかっていながら聞いてみた。どうして欲しいなんて具体的なことを聞いても彼は困るだろうと思ったが、結局何を聞いても同じだったかもしれない。少しの沈黙の後、彼は言った。
「どうか、納得のいく決断を」
祈りみたいだった。その言葉を聞いて里穂は再び言った。
「今日は、なんだか厳しいことを言うのね」
宗一郎はいつもと同じように微笑んで、静かに横顔を見せていた。いいとも悪いともいわない、きれいな横顔だった。
さようならはいつだって言える。でも言わないでいられる。こんなふうに。金曜日の夜、いつまでもこうしていたかった。
特にこれと言って用事があるわけではなかったが、なんとなく話がしたくて、話のネタに自分が関わった新刊を1冊持って、里穂は宗一郎のマンションを訪れた。
その日も、前回会ったときと同じように、彼は眠そうだったので、里穂は申し訳ない気持ちになった。眠くないよと言われれば言われるほどに。
そしてこういうときに選ぶ相手が桃子ではなく、他の女友達でもなく、宗一郎であることに、里穂は彼をとても好きなのだと自覚する。
それは桃子がいつだったか言った「好きなのかと思ってた」よりも軽く、貴広が妬いてしまう「宗だから」とというものよりもずっと軽い感覚だと思っていた。
実際に二人でいても、昔と変わらない。何も変わっていない。そのことの安心感は、ここだけで分かち合えればいいと思っていた。
その日は、いつもより宗一郎は眠かったのかもしれない。疲れていたのかもしれない。
いつも通りのバケット、パテ、チーズ、生野菜をつまみながら、新しく出た書籍を見せながら仕事の話をしていた里穂に宗一郎が言った。
「里穂の今の生活の中心は仕事みたいだね」
その言葉に里穂は「宗だってそれは同じでしょう。それに一週間の7日間のうち5日間は出勤してるんだもの。どうしても仕事が中心になっちゃうわ」と笑って言った。
その言葉に「悪いことじゃないけど」と言って、宗一郎はつられるように微笑んで見せた。
そしてゆっくりとグラスを口元から話して、静かに言った。
「貴広が日本にいる時間はもう限られているから、そのことは、忘れないでやって」
その言葉に、里穂は何も言えなくなり、手元のチーズも動かせなくなってしまう。わかっていた、そんなことは。忘れてなんかいない、ずっとわかっている、と言いたかった。でもそのことを宗一郎に言われたくなかった。
「私のしていることって、間違いなのかしら」
チーズを口元に運べないまま、里穂は言った。少しだけ、嫌味のように聞こえたかもしれないと思って、里穂は視線を宗一郎からそらした。
「間違いとか、そういう話じゃないよ。」
宗一郎はいつもと変わらない笑顔を見せた。
「じゃあ、どういうこと?わからないわ。どうしてそんなことを宗が言うの?貴広に何か言われたの?」
「貴広は何も言ってないよ」
「じゃあ何で?」
もう一度視線を宗一郎に戻す。彼はわずかに困ったような顔をしていたように見えた。長年付き合ってきて、初めて見る顔のようだった。どうしてそんな顔をするの、と、言いたいのに言えなかった。彼もそうだったかもしれない。ただいつものように笑って日常を分かち合えればいいと思っていたから。
困惑した顔を見せる里穂の胸の内を知ってか知らずか、宗一郎は言った。
「きちんと向き合って欲しいと思っただけ」
そのことに、里穂は、向き合っていない、と言えなかった。
いくら仕事できちんとしても、どれだけ丁寧に敬語を使って大人のマナーを守っても、ここでこうしているときは、昔のままでいられるような気がしていた。それでも‘今’と向き合うように言われることは、宗一郎からそう言われることはたまらなかった。いつだってずっと一緒にいてくれると思ってしまっていた。
宗一郎は控えめに笑ったまま、その丁寧な笑顔を崩さずに静かに言った。
「本当にね、昔から貴広は里穂が好きなんだよ。どんなに他の女の子と親しくしても、彼にとっては、絶対に里穂、だったんだよ。わかっているだろうけど。」
その言葉に里穂は困ったように笑った。なんで宗一郎がそんなことを言うの、と思いながら。
「私にロンドンに行って欲しいみたい」
そう言って里穂が笑うと、宗一郎もまた笑った。その笑顔は見慣れた品のある彼らしいものだった。いつも通り、というような笑顔に互いに安心した雰囲気があった。
「そういうわけでもないんだけどね」
じゃあどういうこと、と思いながら、その胸の内を悟ったように宗一郎は言った。
「ロンドンに行く、行かないの話だけじゃなくてさ。さっき言った通り。きちんと向き合って欲しいっていう、いつまでもこのままでいられないっていう話だよ。」
「案外厳しいことをいうのね」
つまらなそうに里穂は残っていたチーズの最後のひとかけを口に放り込んだ。テーブルの上が少しずつ片付いてゆく。
「この距離だからこそね」
宗一郎が言って、二人で笑った。
わかっていた、そんなことは。それでも永遠にこうしていられないことは、わかっていたのだ。
でももう少しだけと思いながら、里穂はその夜も宗一郎のベッドを借りて、ソファで横になって電子機器を眺める彼の横顔を見ていた。相変わらずきれいなその横顔は、光で白く照らされていた。見慣れた光景と言えるほどでもないかもしれないが、見慣れない光景と言えるほどでもない、何度も繰り返してきた場面。
ふと、貴広の言葉を思い出す。
「好きな女が目の前で寝てて何もしないでいられない」
もう少ししたら里穂は眠ってしまうだろう。それでも何もしないでいられるこの関係。ただそばにいるだけでいい。失いたくない。そのことの気楽さと貴重さ。
でもきっともう次に会うときは、今とは同じではないかもしれない、とも思っていた。わずかな予感として。なんとなく。同じ気持ちでは会えていない気がしていた。
「宗は、私にロンドンに行って欲しい?」
行って欲しいとも行かないで欲しいとも彼が言わないことを里穂はわかっていながら聞いてみた。どうして欲しいなんて具体的なことを聞いても彼は困るだろうと思ったが、結局何を聞いても同じだったかもしれない。少しの沈黙の後、彼は言った。
「どうか、納得のいく決断を」
祈りみたいだった。その言葉を聞いて里穂は再び言った。
「今日は、なんだか厳しいことを言うのね」
宗一郎はいつもと同じように微笑んで、静かに横顔を見せていた。いいとも悪いともいわない、きれいな横顔だった。
さようならはいつだって言える。でも言わないでいられる。こんなふうに。金曜日の夜、いつまでもこうしていたかった。