情熱
真冬のコートが必要になり始めた12月、桃子とランチの約束をした。久しぶりにゆっくり食事をしようと話していたのだ。
待ち合わせの店でメニューを開くなり、彼女は言った。
「ねえ、こないだ本人から聞いたんだけど、貴広、来年ロンドン行っちゃうんだって。里穂は知ってた?」
里穂は、何か、いろんなことに対して申し訳なさそうにして、ゆっくりと頷いた。
メニューも見ずに向かい合ってどこか泣きたいような顔をしていた里穂に桃子は「どうしたの」と言って心配した。
やがてオーダーしたランチをゆっくりと味わいつつ、里穂は一つずつ話をした。
貴広がもう何か月も前に話してくれたこと、それから二人で会っていること。それでもまだはっきりとわからない自分の気持ち。桃子は親身になって話に付き合ってくれた。
「この後、貴広の家に行く予定なのよ。いいかげん、きちんと話をしないといけないと思って」
彼が日本にいる時間は、もう三か月を切っていた。遠くへ行って欲しいとも、一緒に連れて行って欲しいとも言えなかった。自分のなかではっきりとした答えが出ていたわけではなかったが、それでも曖昧な気持ちのままでも現状を伝えておかなければ彼も困ってしまうだろうと思っていたのだ。
もしも彼が他にロンドンに連れていきたい女性がいると言われても、里穂は受け入れられる気がしていた。彼を嫌いということではなく。幸せでいて欲しいというきれいごとみたいな本当が、今なら本当にある。
心配したような顔を見せる桃子に里穂は自分でもあきれたように笑って言った。
「断ればいいのにね。本当に嫌だったら。いつもそうなの。連絡してくれて、きちんと約束通を守ってくれて、優しくしてもらって、必要だと求めてくれて。その気持ちに応えるか拒むかしか選択肢はないはずなのに。それでたまに自分が貴広を傷つけていることにも気づく。それでも私と距離を縮めようとしてくれる彼を、私はどうやっても嫌いになれない。だって友達としてずっと好きで親しくしてきたわけでしょう。」
桃子は少しの間何も言わないで、真剣にそのことについて考えているようだった。そして言った。
「私は、里穂は貴広のほうが合っていると思う」
桃子の言葉に、思わず里穂は怪訝な顔をした。
「なぜ?」
貴広のほう、という言葉もひっかかった。そのことは聞かなくてもわかったみたいで、桃子は静かに言った。
「例えばだけど、宗とも仲良くやっていけると思うのよ。でも違うの。タイプが、宗と里穂だと二人とも丁寧で、あまりにも優しくて、いろんなことに気が付きすぎちゃって、なんだか見ていて切なくなってしまいそうで、心配なの。その点、貴広っていい意味で適当というか、おおざっぱでしょ?細かいことを気にしないし、根がポジティブだから、貴広なら安心かなって思うの。」
まあ、私が勝手に思っているだけなんだけど、と付け足して、桃子はランチコース最後のコーヒーを口に運んだ。
あまりいい表情と言えない顔で笑った里穂に桃子が「大丈夫よ」と言った。
「断れないでいるっていうのも、一つの答えだと思うわ。結婚って、そんなものよ。」
結婚して半年たつ桃子が少しだけ先輩の顔をして言った。結婚なんてたいしたものじゃないわ、というように、あっさりとした言葉だった。
ふと、『愛の夢』の2番、愛によって死に、目覚め、天国を見たというウーラントの詩を思い出して、桃子の言葉に里穂は納得がいかないような顔をしていると、今度は桃子が申し訳なさそうな顔をして、軽く笑顔を作って言った。
「夫婦の日常は、思っているよりずっと平凡で、今まで通りの日常よ。起きて、食事をして、もしかしたらいってらっしゃいのキスをするかもしれないけど、それからそれぞれ仕事をしたり家の用事を済ませたりして、また顔を合わせて今日あったことを話しながら食事をして眠りについて、本当に、そんなことの繰り返しが結婚なんだって思ったわ。」
桃子の話を聞きながら里穂が軽い笑顔を見せると桃子も優しく微笑んで言った。
「大丈夫、貴広となら絶対にうまくやっていける。里穂だって言ったじゃない。ずっと友達として好きで親しくしてきたって。それって十分なことだと思うわ。あのね、本当に嬉しいのよ。だって里穂が私の知らない男と結婚するなんて嫌だもの。きっと宗だって同じ気持ちだと思う。それに、今までずっとみんなで仲良くしてきて、これからもそれは変わらないわ。これから頻繁には会えないかもしれないけど、楽しく集まれるわよ。大学生の頃みたいにまたみんなでテニスもできる。あんなに走れないかもしれないけど」
桃子がそういって、二人で笑った。桃子の明るい笑顔。いつも眩しかった。見ているとつられて笑うことも多かった。高校生の頃から、こうやっておしゃべりをして、笑っていたことを思い出して、ふと里穂は泣きそうになった。歩いてきた道のりを振り返ったら、過ぎ去った懐かしい時間を思い出したら、なんだか、むしょうに。
桃子が言った。
「宗が、気になる?」
いつだったかも、こんなふうに桃子の口から宗一郎の名前を聞いた。同じ響きで。
「大切な友達だから。気にならないはずがないわ」
里穂は言った。
「大丈夫よ」
桃子が今日何度目かのその言葉を口にして、里穂はまた愛想笑い程度に笑顔を見せた。その桃子に向けた笑顔は少しだけ嘘をついているみたいだった。
待ち合わせの店でメニューを開くなり、彼女は言った。
「ねえ、こないだ本人から聞いたんだけど、貴広、来年ロンドン行っちゃうんだって。里穂は知ってた?」
里穂は、何か、いろんなことに対して申し訳なさそうにして、ゆっくりと頷いた。
メニューも見ずに向かい合ってどこか泣きたいような顔をしていた里穂に桃子は「どうしたの」と言って心配した。
やがてオーダーしたランチをゆっくりと味わいつつ、里穂は一つずつ話をした。
貴広がもう何か月も前に話してくれたこと、それから二人で会っていること。それでもまだはっきりとわからない自分の気持ち。桃子は親身になって話に付き合ってくれた。
「この後、貴広の家に行く予定なのよ。いいかげん、きちんと話をしないといけないと思って」
彼が日本にいる時間は、もう三か月を切っていた。遠くへ行って欲しいとも、一緒に連れて行って欲しいとも言えなかった。自分のなかではっきりとした答えが出ていたわけではなかったが、それでも曖昧な気持ちのままでも現状を伝えておかなければ彼も困ってしまうだろうと思っていたのだ。
もしも彼が他にロンドンに連れていきたい女性がいると言われても、里穂は受け入れられる気がしていた。彼を嫌いということではなく。幸せでいて欲しいというきれいごとみたいな本当が、今なら本当にある。
心配したような顔を見せる桃子に里穂は自分でもあきれたように笑って言った。
「断ればいいのにね。本当に嫌だったら。いつもそうなの。連絡してくれて、きちんと約束通を守ってくれて、優しくしてもらって、必要だと求めてくれて。その気持ちに応えるか拒むかしか選択肢はないはずなのに。それでたまに自分が貴広を傷つけていることにも気づく。それでも私と距離を縮めようとしてくれる彼を、私はどうやっても嫌いになれない。だって友達としてずっと好きで親しくしてきたわけでしょう。」
桃子は少しの間何も言わないで、真剣にそのことについて考えているようだった。そして言った。
「私は、里穂は貴広のほうが合っていると思う」
桃子の言葉に、思わず里穂は怪訝な顔をした。
「なぜ?」
貴広のほう、という言葉もひっかかった。そのことは聞かなくてもわかったみたいで、桃子は静かに言った。
「例えばだけど、宗とも仲良くやっていけると思うのよ。でも違うの。タイプが、宗と里穂だと二人とも丁寧で、あまりにも優しくて、いろんなことに気が付きすぎちゃって、なんだか見ていて切なくなってしまいそうで、心配なの。その点、貴広っていい意味で適当というか、おおざっぱでしょ?細かいことを気にしないし、根がポジティブだから、貴広なら安心かなって思うの。」
まあ、私が勝手に思っているだけなんだけど、と付け足して、桃子はランチコース最後のコーヒーを口に運んだ。
あまりいい表情と言えない顔で笑った里穂に桃子が「大丈夫よ」と言った。
「断れないでいるっていうのも、一つの答えだと思うわ。結婚って、そんなものよ。」
結婚して半年たつ桃子が少しだけ先輩の顔をして言った。結婚なんてたいしたものじゃないわ、というように、あっさりとした言葉だった。
ふと、『愛の夢』の2番、愛によって死に、目覚め、天国を見たというウーラントの詩を思い出して、桃子の言葉に里穂は納得がいかないような顔をしていると、今度は桃子が申し訳なさそうな顔をして、軽く笑顔を作って言った。
「夫婦の日常は、思っているよりずっと平凡で、今まで通りの日常よ。起きて、食事をして、もしかしたらいってらっしゃいのキスをするかもしれないけど、それからそれぞれ仕事をしたり家の用事を済ませたりして、また顔を合わせて今日あったことを話しながら食事をして眠りについて、本当に、そんなことの繰り返しが結婚なんだって思ったわ。」
桃子の話を聞きながら里穂が軽い笑顔を見せると桃子も優しく微笑んで言った。
「大丈夫、貴広となら絶対にうまくやっていける。里穂だって言ったじゃない。ずっと友達として好きで親しくしてきたって。それって十分なことだと思うわ。あのね、本当に嬉しいのよ。だって里穂が私の知らない男と結婚するなんて嫌だもの。きっと宗だって同じ気持ちだと思う。それに、今までずっとみんなで仲良くしてきて、これからもそれは変わらないわ。これから頻繁には会えないかもしれないけど、楽しく集まれるわよ。大学生の頃みたいにまたみんなでテニスもできる。あんなに走れないかもしれないけど」
桃子がそういって、二人で笑った。桃子の明るい笑顔。いつも眩しかった。見ているとつられて笑うことも多かった。高校生の頃から、こうやっておしゃべりをして、笑っていたことを思い出して、ふと里穂は泣きそうになった。歩いてきた道のりを振り返ったら、過ぎ去った懐かしい時間を思い出したら、なんだか、むしょうに。
桃子が言った。
「宗が、気になる?」
いつだったかも、こんなふうに桃子の口から宗一郎の名前を聞いた。同じ響きで。
「大切な友達だから。気にならないはずがないわ」
里穂は言った。
「大丈夫よ」
桃子が今日何度目かのその言葉を口にして、里穂はまた愛想笑い程度に笑顔を見せた。その桃子に向けた笑顔は少しだけ嘘をついているみたいだった。