情熱

約束していた時間より30分程遅れて貴広のマンションを訪れた。
土曜日にもかかわらずオンラインでミーティングをしていたという彼はいくらかラフな姿で里穂を迎えた。

「桃子と会ったきたの」
遅刻の言い訳に親友の名前を出して、チョコレートを買ってきたから一緒に食べようと紙袋を差し出してごまかした。
こうして彼の家を訪れることも、もう何回目かになるが、やはり宗一郎の家を訪れる時とは違う感じがしていた。
「コーヒーもあるの。ショップの限定でね、チョコレートがおいしく食べられるって店員さんが勧めてくれて。」
無理にはしゃいでいるみたいだと思いながら、里穂は明るく振舞った。

そんな里穂の様子に、約束した時間などどうでもいいというように貴広は笑った。
よかったね、楽しかった?と聞く彼はとても穏やかで、その言葉はまるで宗一郎が言っているようだった。

ここのところ、彼は四人で会っていたときの彼とは少しずつ変わってきていた。違う面が見えてきている、ともいえるのかもしれない。
どちらにしろ、里穂は、自分は桃子の知らない貴広を知っていっている、と思った。
そのことが落ち着かなかった。
変わってゆく。いろんなこと。変わりたくないと思っていても、いつのまにか。変わらざるを得ないこともある。
里穂にはその違いすべて、こうやって今までと変わってゆくことが妙に怖かった。

「キッチン、借りるわね。お湯を沸かさないと」
先ほど見ていたはずの青空はいつのまにか真っ赤な夕焼けになっていた。
あっというまに陽は沈むだろう。12月に入ってからというもの、陽はますます短くなっていった。思えば、貴広に想いを告げられたのはもう半年近く前のことだった。あの頃は陽が一番長い季節だった。
あの夏の夜の銀座のきらめきが恋しいわけでも今の目の前でどんどん沈んでゆく夕焼けが憎いというわけでもない。ただ、変わってゆく。自分ではどうにもできないまま変わってゆくことがある。

そのことを、里穂はいつも感じていた。陽が沈むように。いつのまにかまた明るくなって一日が始まってしまっているように。でもただ繰り返されるではない。確実に、時間は戻らないところに流れていっていた。あと三か月もしたら、貴広は日本ではないところで暮らしている。いつのまにか大人になってしまった自分のように、みんなそれぞれ遠いところに行ってしまう。

「どうかした?」
キッチンに立ってコーヒーカップを二つ並べたまま動かないでいた里穂に貴広が言った。
隣に立った貴広に気づくと里穂は顔だけ向けて、たいしたことじゃないわ、と呟くように言った。
「いつから、ブラックコーヒー飲めるようになったのかな、なんて思っただけ」
その言葉に、不思議そうに、そしてわずかに心配するように貴広は軽く笑って首を傾げた。
「子どもの頃は飲めなかったの。砂糖を入れて、ミルクをたっぷり入れていたのにね。それなのに、いつのまにこの味に慣れちゃったのかなって。不思議ね、人っていつのまにか慣れてゆく生き物なのね。」

里穂は可笑しそうに笑った。慣れてしまったものはブラックコーヒーだけでなく、ほかにもたくさんある。たとえばそう、週末の夜に7つの物語の名前を答えることだって。最初は大変だった。でも繰り返していくうちに簡単なことになった。今にして思えば、きっとたいしたことではなかったのだ。
「これからも慣れてゆくのかしら、いろんな変わっていくことに。変わりたくないと思っていても」
貴広は返事に困ったような顔をした。
里穂は笑っているつもりなのに、なんだか切なくて、自分でも悲しい気持ちになってきた。あまりにもいろんなことがめまぐるしく変化していって、このままでいたい、と思う気持ちこそが間違いのような、何かおかしなことのように思えてしまっていた。

やがてケトルからは蒸気とお湯が沸く音がしてきた。沸騰したお湯をカップに注いでコーヒーのドリッパーを里穂が捨てようしたそのときだった。

「里穂」
貴広が名前を呼んだ。そして次の瞬間に里穂を背後から抱き締めて、言った。
「ごめん」
もう何年も聞いてきた声なのに、初めて聴く声みたいに、耳に新しく響いた。そのくらい、色々なものがまざった「ごめん」だった。
自分が海外に赴任することにならなければ。一緒に来て欲しいと言わなければ。想いを伝えなければ。そういう気持ちは痛いほど伝わってきた。
「悩ませて、ごめん」

そう言いながら、少しも里穂を抱く腕の強さは弱まる気配はなかった。それでも手放したくないと言うように、その腕は、強く里穂を抱いた。
最初は驚いた里穂もそんな彼が切なくて、でも可笑しいような微笑ましいような気もして、軽く笑っていいのよ、と言った。

さようならはいつだって言える。でも言わないでいる。
嫌いにならない予感はいつもあった。いつだって続いて行って欲しい気持ちばかりだった。

そして少しの間、彼の気が済むまで付き合おうと思って里穂は貴広の腕を振り払わなかった。あまりにも強くて振り払えなかったとも言える。沈黙は、不快ではなかった。
やがてコーヒーから立つ湯気が弱まってきた頃、里穂は芳ばしい香りをそのままにしておくのがもったいなくて言った。

「ねえ、コーヒー」
里穂を抱く腕は先ほどと変わらない強さのままだった。
腕を解いて、というように、里穂は貴広の腕の隙間から伸ばした手で、その腕を剥がそうとした。
「里穂」
再び貴広が名前を呼んだ。一瞬、それは知らない誰かの声ではないかと思った。聞いたことがないほど胸に刺さる悲しい響きをしていからだ。

「里穂」
「話がしたいの」
「里穂」
名前を呼ばれているだけなのに、欲しい、と言われているみたいだった。
ごまかしたかった。変わらないで欲しかった。このままでいたかった。ずっと今までが続いていって欲しかった。
「お願い、話を」
泣きそうになりながら声を震わせて里穂は言った。
「里穂」
もう一度貴広が名前を呼んだ。それは今日までずっと聴いてきた、失くしたくない声だった。

貴広の腕は里穂が思っていたよりももっとずっと強くてたくましかった。こうして触れるまで、知らなかった。こんなに強く自分を抱くまで、知っているつもりで知らなかった。
やがて観念したように里穂はわずかに彼の腕をつかんだ手の力を緩める。

貴広はそのまま里穂の首筋に顔をうずめて、そして泣いているのかと思うほど切ない声で言った。
「これ以上、言葉で説明できない。」

貴広の気持ちをわかっている、と里穂は言えなかった。
どれほど自分を必要とし、求めてくれているかを、わかっているつもりだったけど、わかっていると言えなかった。
彼の胸の内を何度も言葉にしてもらって、同じ話を繰り返ししてもらって、これ以上言えることはなかっただろう。もう十分に伝えてもらったと、言えなかった。あまりにも自分を抱くその腕が力強くて、服を隔ててでも感じられるその体が熱くて。

だから彼のその情熱を、互いに肌を重ねる以外で、これ以上伝えることも感じることもできないことを、里穂はきちんとわかっていた。

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