情熱
「何してんの?」
真っ暗なキッチンに立つ里穂に、ベッドの中から貴広が聞いた。
「アイスコーヒーを飲んでいるのよ。」
里穂が言うと貴広が「ごめん」と笑った。コーヒーを飲もうとしたところだったことを思い出したのだ。
「電子レンジですぐにホットコーヒーになるわ。貴広も飲む?」
「じゃあ、アイスコーヒーを」
里穂は笑ってすっかり冷たくなったもう一つのカップを渡した。ありがとう、と受け取って一口飲んで貴広は言った。
「ごめん」
「アイスコーヒーになったこと?」
里穂が言うと、貴広は少し笑って、申し訳なさそうな顔をした。
「強引だったかなって」
里穂は笑った。
「無理やりされたなんて思ってないから大丈夫よ。私も、拒めなかった」
そう、と言って貴広は大きく深呼吸した。ため息のようだった。
「後悔しているの?」
「いや、していない」
里穂の問いに彼はすぐに強い口調で言った。絶対にそんなことはない、と言うように。しかしまたすぐに少しだけ切ない顔をして、俯いて言った。
「後悔していない。でも、もし今日のことをきっかけにして里穂が二度と会ってくれなくなるなら、一生後悔する。たぶん、死んでからも、ずっと。」
そう言われて、里穂はその気持ちを、わからなくない、と思った。変わらないで、このままずっと続いていって欲しいという気持ちは誰よりも持っていたつもりだったから。
異性としてのそれぞれを知ってしまうと、知らなかったときに戻れないことは二人ともが十分にわかっていた。もしかしたら今まで大事にしてきたものを失うかもしれないという恐怖は常にあった。
そして今はもうほんの数時間前の自分たちに戻れないことがすでに悲しかった。
冷めたコーヒーを飲み終えると、里穂は貴広に自分を抱き締めて欲しくて、ベッドに座ったままの彼を抱き締めた。細い腕で、精一杯の力を込めて。自分自身の不安を和らげるためにも。
貴広はそれに応えるように里穂を抱き寄せる。髪をなで、頬を寄せて、指の先まで里穂に愛おしそうに触れた。
そうやって先ほどもたっぷりと愛されたことを思い出す。それは丁寧に、大切に、愛おしむという言葉そのものだった。
その一つ一つを思い出して、大丈夫、後悔していない、と里穂は思った。
「お願いがあるの」
何、と貴広は聞いた。
「たまには、冗談を言ってね。今までみたいに。昔からしてきたみたいに」
「毎日言うよ。」
「また四人でも遊ぶって、約束して。」
四人、というのが宗一郎と桃子だということは言わなくてもわかった。懐かしい面影がすぐに浮かんでくる。
「うん、もちろん。」
貴広は微笑んだ。どこか切なくも見える顔で。
そして、約束するよ、と言った貴広の首元に顔を埋めて、彼をもう一度強く抱きしめて里穂は言った。
「好きよ。貴広。今までもこれからも。本当に。大好きよ」
嘘じゃなかった。
でも、言いながら、少しだけ泣いていることが、貴広にわからなければいいなと思った。
貴広のことを想いながら、一瞬だけ宗一郎のことを思い出したから。
もうあのマンションを訪れることも、控えめにあくびをされながらいつまでも話に付き合ってもらうこともないんだ。彼のベッドの中で今にも寝てしまいそうになりながらソファでタブレットを眺める彼の横顔を見ることも、自分の人生にはないんだと思ったら、そのすべてを手放したのだと思ったら。