情熱
八月の下旬、少し遅れた夏休みをとって里穂は軽井沢を訪れた。
大学で教鞭をとっていた父が退職して一年。両親は軽井沢の一軒家を購入してのんびりと暮らしていた。
父はドイツ文学の研究をしていた。里穂の本好きはもちろん、海外の文学に親しんでいたのも父の影響だった。
駅に着くと父が白いセダンの車の横に立っていて笑って手を振ってくれた。一人娘との久々の再会を心から嬉しそうにしていた。
「お母さんは?」
「食事の準備をしてる。里穂が来るって張り切って色々用意していたよ。」
「嬉しいわ。」
「元気そうでよかったよ。」
「お父さんこそ。最近は何をしているの。」
「たまに頼まれると翻訳したり、ちょっと解説を書いたり。でもほとんど遊んで暮らしているよ。釣りとか、蕎麦打ちとか」
「楽しそうね。何よりだわ」
世間話をしている間に車は家に着いた。両親の家は駅から車で十分ほどのアクセスのいい場所にあった。
軽井沢と言ってもここ数年の猛暑はすさまじく、避暑地とはいいがたい蒸し暑さではあったが、空気はやはりよかった。緑も濃くて、ただその東京とは違う景色を眺めるだけでも気持ちがよかった。夜はもっと過ごしやすいから安心するようにと父が言って、里穂は笑った。
家に入る前からいい匂いが漂ってきていて、久々の母の手料理に期待が膨らむ。玄関を開けると母は昨年会ったときと変わらない若々しさで里穂を迎えた。
「張り切ってたくさん用意したからね。いっぱい食べてね」
バケット、ディップ、それからチーズにシャルキュトリーが複数用意されていて、新鮮な野菜をダイナミックに盛り付けたサラダがいい感じだった。オーブンからは焼けたばかりの魚が出された。風味付けに使われたハーブは庭で育てたものらしい。
パンは母の手作りかと思いきや、近所にあるおいしいパン屋のものだと言った。ならば鮎の香草焼きは父が釣った魚かと聞くと彼は、買ったに決まっているだろうと言って、一同で笑った。昼過ぎからワインを開けて、穏やかな久々の家族団らんだった。
「里穂は最近どんな毎日なの?」
きれいに焼き目をつけられたズッキーニと茄子のマリネを里穂に取り分けながら母が言った。
「企画を出したり、撮影に立ち会ったり。ちょっとずつ一人の仕事も増えてきたの。あと、イラストレーターさんとか作家さんともやり取りさせてもらえるようになって、今度うちの出版社から出る有名な作家さんの書籍にも編集者で名前を載せてもらえることになったの。ほとんど先輩のおかげなんだけど」
「わあ、すごい!本が出たら教えてね」
「うん、送るわ」
母親のその言葉と表情は、子どもの頃から与えられてきたもので、いつだって里穂を励まし、安心させた。たとえここが軽井沢であっても、帰ってきた、と思わせてくれる。そのくらい馴染みのある母親の声と笑顔。
「素敵な人はできたかしら?」
母はその嬉しそうな表情のまま里穂に聞いた。父は聞きたいような聞いてはいけないような複雑そうに、でもにこやかにしていた。こういうとき、里穂は素直に何でも話をした。一人っ子ということもあったし、両親は何でも話せる貴重な存在だった。
「実は相談したかったの。」
冷えた白ワインで口の中を流して、話の続きを待つ両親に言った。
大学生の頃から親しくしている友人がロンドンに転勤になること。その彼に結婚して一緒に来て欲しいと言われていること。彼のルックス、人柄、ともに素敵な人であること。そしてずっと友人で、これからも友人であると思っていたこと。どうしたらいいのかわからないこと、そう思いながら会っていること、すべて。
「いいじゃない、ロンドン。」
「そうだな。アフリカとか中東って言われたらちょっと心配だけどな」
話題の中心は結婚や貴広のことよりも赴任先のことだったので、両親の言葉に里穂は困ったような顔をして言った。
「もっと大事なことがあると思うんだけど」
「何が?」
明るい表情で母が言った。
「その、相手のこととか、結婚とか。」
里穂の言葉に、母はあっけらかんと言った。
「ああ、そのこと?いいじゃない、その人と結婚したら。ちゃんと仕事して里穂を大事にしてくれるなら、それだけで大丈夫。問題なし。ねえ、お父さん?」
話題を振られた父は少しだけ寂しそうに頷いた。こういうとき、父親というのは決まって少しだけ娘を手放すのが寂しそうである。
「簡単に言うのね。」
「だって、私たちだって、普通に学生時代から仲良くて、なんとなくそのまま結婚って感じだったし。今までも気が合って仲良くしている人だったら、何も心配いらないじゃない」
母の言うことは納得できた。自分が勝手に悩んでいるだけなのだろうかと思うほどに、それはたいしたことのないように思えた。里穂は真面目で慎重ね。そこが里穂の魅力なんだろうけど、と母が微笑んで言った。
すっきりしない表情のままの里穂に、やがて父が控えめに微笑んで言った。
「他に気になる人でもいるのかな」
一瞬、里穂の動きが止まる。そして、いないわ、と静かに言った。
そのとき、貴広と一緒にいる宗一郎を思い浮かべたことは、両親にも言わなかった。