情熱
翌日は朝から父親に誘われてテニスをした。ラリーを繰り返すだけでも息が上がり、汗をかいてしまう。そういう点では、父は年齢よりずっと若々しいと感じた。
午後からは庭でバーベキューをすることになっている。明日は絵本の美術館に行き、最後の日は家族三人でコンサートに行く予定だ。ドイツ歌曲などを中心としたコンサートで、父の知り合いも観客として来るらしく、夕食をご一緒することになっていた。
休暇とはいえ三泊四日の滞在期間中にやることは多くあった。
コンサートで一番印象的だったのは、リストの「愛の夢」だった。
ピアノ曲でよく知られる第三番はフェルディナント・フライリヒラートの「愛しうる限り愛せ」という詩で有名だが、一番と二番を生で聴くのは初めてだった。ルートヴィヒ・ウーラントの詩がつけられたその歌には三番とは違う愛がのせられている。
特に二番は、すごかった。深みのある伴奏の音色に加えてバリトンの声。どこまでも響いていきそうだった。その声が歌う愛は、愛によって死に、目覚め、天国を見た、と歌っていた。本当の愛はそれほど強烈なものか。そしてそれを自分は知らない、と里穂は思った。
両親は、知っているだろうか。結婚したばかりの桃子は、そんなことを感じただろうか。みんな本当にそんなことを知っているのだろうか。
最後の夜、夕食の後で家族でテラスでお酒を飲んでいた。
父はウイスキー、里穂と母は甘口のデザートワインを味わっていた。
「今日のコンサートはどうだった?」
父が言った。久しぶりに懐かしい友人と会えた父はいつも以上に幸せそうだった。
「愛の夢の一番、二番を聴けてよかったわ。あとは、野ばらは、やっぱりシューベルトが好きかなって。」
「里穂はシューベルト派なのよね。私はウェルナーの野ばらも大好き。」
母が言った。
「里穂はわかりやすいものが好きなんだな」
父は笑った。難しい曲や物語よりも、つい口ずさみたくなるような親しみのある童謡のメロディや詩、児童文学のような主題がはっきりしたストーリーを里穂は好んだ。
「幼稚なのよ。今でもお父さんから貰ったミヒャエル・エンデを愛読しているし」
「ははは、いいじゃないか。僕の中では里穂はいつまでもかわいい娘のままだから」
父の朗らかな笑い声が夜の中に優しく響いた。
そして子どもの頃と同じように里穂が「お父さん」と呼ぶと父は、どうした、と言うように笑って里穂を見た。
「変わらないでいたい、と思うことは、悪いことかしら」
里穂の言葉に父はただ微笑んだ。そして少し考えてから、丁寧に言った。
「変化に慣れるのがうまい人もそうでない人もいる。早く慣れる人も、時間がかかる人も、みんな色々だ。そのままで変わらないでいたいと思う心があっても、全く問題ないよ。でも、気が付いたら、いつのまにか変わっていることも、変わらざるをえないことも、ある。それで、そのときものすごくつらくなったり、悲しくなったりして、変化を否定したくなるときもあるかもしれないけど、流れにのって、受け入れてごらん。いつかそれを前向きに捉えられるときがくると思う。99パーセントを否定したいときがあっても、1パーセントくらいは何かしらの意味があることだったと、プラスに思えることがきっとあるはずだよ。」
だから、大丈夫、何があっても大丈夫だよ、と父は優しい穏やかな声で言った。それは、先日の話に対することだけではない、何か、長い人生をしなやかに生きていくための父からのアドバイスだった。
すると母が夜に似合わない明るい声で言った。
「お父さんなんてすっかり軽井沢に慣れちゃってね、すごいのよ!もう生まれ育った町みたいにあちこちに顔がきくようになってるの。」
「それを言ったら君だって。犬がいない家なのに、その辺の犬の散歩をしてる人たちとまで顔見知りじゃないか」
夫婦のやり取りに里穂は笑った。父と母の間に、ウーラントの言うような、死に、目覚め、天国を見るような愛があるかはわからなかったが、言いたいことを言い、互いを分かり合っている二人を、確かにいいなと思った。
「少しはリフレッシュできたかい」
父の言葉に里穂は首を縦に振った。星は数えきれないほど光っていた。
「帰りたくないわ」
そういうと両親は笑った。でも本心だった。
いつまでも娘のままでいたい、と思った。結婚して誰かの妻になるよりも、このまま、両親の娘のままで。少なくとも今は。
「またいつでもおいで。なんなら毎週泊まりに来たっていいんだから。いつでも帰る場所がある、待っている人がいる、どこにいてもそのことを、どうか忘れないように」
待っている人と言われて、自分には東京にも帰る場所があることを改めて思った。職場の人とか、友達とか、多くはないけれど、確かに。
「軽井沢で楽しかったことを7つ答えよ」
父が昔と同じように言って、里穂もまた、子どもの頃と同じように笑って指を折りつつその楽しかった思い出を口にした。
午後からは庭でバーベキューをすることになっている。明日は絵本の美術館に行き、最後の日は家族三人でコンサートに行く予定だ。ドイツ歌曲などを中心としたコンサートで、父の知り合いも観客として来るらしく、夕食をご一緒することになっていた。
休暇とはいえ三泊四日の滞在期間中にやることは多くあった。
コンサートで一番印象的だったのは、リストの「愛の夢」だった。
ピアノ曲でよく知られる第三番はフェルディナント・フライリヒラートの「愛しうる限り愛せ」という詩で有名だが、一番と二番を生で聴くのは初めてだった。ルートヴィヒ・ウーラントの詩がつけられたその歌には三番とは違う愛がのせられている。
特に二番は、すごかった。深みのある伴奏の音色に加えてバリトンの声。どこまでも響いていきそうだった。その声が歌う愛は、愛によって死に、目覚め、天国を見た、と歌っていた。本当の愛はそれほど強烈なものか。そしてそれを自分は知らない、と里穂は思った。
両親は、知っているだろうか。結婚したばかりの桃子は、そんなことを感じただろうか。みんな本当にそんなことを知っているのだろうか。
最後の夜、夕食の後で家族でテラスでお酒を飲んでいた。
父はウイスキー、里穂と母は甘口のデザートワインを味わっていた。
「今日のコンサートはどうだった?」
父が言った。久しぶりに懐かしい友人と会えた父はいつも以上に幸せそうだった。
「愛の夢の一番、二番を聴けてよかったわ。あとは、野ばらは、やっぱりシューベルトが好きかなって。」
「里穂はシューベルト派なのよね。私はウェルナーの野ばらも大好き。」
母が言った。
「里穂はわかりやすいものが好きなんだな」
父は笑った。難しい曲や物語よりも、つい口ずさみたくなるような親しみのある童謡のメロディや詩、児童文学のような主題がはっきりしたストーリーを里穂は好んだ。
「幼稚なのよ。今でもお父さんから貰ったミヒャエル・エンデを愛読しているし」
「ははは、いいじゃないか。僕の中では里穂はいつまでもかわいい娘のままだから」
父の朗らかな笑い声が夜の中に優しく響いた。
そして子どもの頃と同じように里穂が「お父さん」と呼ぶと父は、どうした、と言うように笑って里穂を見た。
「変わらないでいたい、と思うことは、悪いことかしら」
里穂の言葉に父はただ微笑んだ。そして少し考えてから、丁寧に言った。
「変化に慣れるのがうまい人もそうでない人もいる。早く慣れる人も、時間がかかる人も、みんな色々だ。そのままで変わらないでいたいと思う心があっても、全く問題ないよ。でも、気が付いたら、いつのまにか変わっていることも、変わらざるをえないことも、ある。それで、そのときものすごくつらくなったり、悲しくなったりして、変化を否定したくなるときもあるかもしれないけど、流れにのって、受け入れてごらん。いつかそれを前向きに捉えられるときがくると思う。99パーセントを否定したいときがあっても、1パーセントくらいは何かしらの意味があることだったと、プラスに思えることがきっとあるはずだよ。」
だから、大丈夫、何があっても大丈夫だよ、と父は優しい穏やかな声で言った。それは、先日の話に対することだけではない、何か、長い人生をしなやかに生きていくための父からのアドバイスだった。
すると母が夜に似合わない明るい声で言った。
「お父さんなんてすっかり軽井沢に慣れちゃってね、すごいのよ!もう生まれ育った町みたいにあちこちに顔がきくようになってるの。」
「それを言ったら君だって。犬がいない家なのに、その辺の犬の散歩をしてる人たちとまで顔見知りじゃないか」
夫婦のやり取りに里穂は笑った。父と母の間に、ウーラントの言うような、死に、目覚め、天国を見るような愛があるかはわからなかったが、言いたいことを言い、互いを分かり合っている二人を、確かにいいなと思った。
「少しはリフレッシュできたかい」
父の言葉に里穂は首を縦に振った。星は数えきれないほど光っていた。
「帰りたくないわ」
そういうと両親は笑った。でも本心だった。
いつまでも娘のままでいたい、と思った。結婚して誰かの妻になるよりも、このまま、両親の娘のままで。少なくとも今は。
「またいつでもおいで。なんなら毎週泊まりに来たっていいんだから。いつでも帰る場所がある、待っている人がいる、どこにいてもそのことを、どうか忘れないように」
待っている人と言われて、自分には東京にも帰る場所があることを改めて思った。職場の人とか、友達とか、多くはないけれど、確かに。
「軽井沢で楽しかったことを7つ答えよ」
父が昔と同じように言って、里穂もまた、子どもの頃と同じように笑って指を折りつつその楽しかった思い出を口にした。