きみが空を泳ぐいつかのその日まで
「あたしに会った記憶はなくなるはずだから、安心してしあわせになるんだよ。うんとうんとね」
「嘘だよ、そんなのイヤだ!」
「大丈夫。何もこわくないから。残された人はみんなそうやってくの」
「お願い、そんなこと言わないで?」

目をこすってもみどりさんがぼんやりとしか見えなくなって、胸の内側がかなしみでひたひたに膨らんでいった。

「みどりさん、手を握って」
「いいよ」

雨をはじく長い睫毛の先を、ずっとずっとこっちに向けていてほしい。
それなのに彼女の白い手は、するりとこの手のひらをすり抜けた。

「ほんとに消えちゃう!」
「そうだね」
「なんでそんなに、冷静でいられるの?」

みどりさんの匂いや体温や仕草や胸の感触。
肩についたカチカチのお米すらあんなにもクリアに現実として実感できたのは、きっと私があちら側に行きたがっていたからなんだ。

たとえ無様でも生きてみよう、生きていこうって思えば思うほど、みどりさんがその存在感をなくしていくことにほんとうは気づいていた。

「悲しくないよ。消えてしまうだけ、見えなくなってしまうだけで、あたしは今までもこれからもここにいる」
「そんな……」

彼女を失うことが、身体の一部をなくすみたいに、こんなにもこわいのに。

「ねぇ、もしかしてずっとずっと、小さな頃から、そばにいてくれた?」
「さぁ、どうかなぁ」

それはたとえば、泣いている幼いわたしの隣に。触るとなぜか安心できた、お気に入りの服のボタンのうえに。

宝物のビー玉の、透明な光のなかに。
苦手な理科のテストの空欄のなかに。

ファンタジーな匂いのするカタカナの一画に。あの桜を散らす、春の突風のなかに。

私の自転車のうしろに。
千絵梨と読んだ、絵本のページに。

お母さんが褒めてくれるときの、くすぐったい言葉のなかに。
お父さんの作ったお弁当の片隅に。

金魚をのぞきこむ、あの少女のこころのひだに。噴水のにごった水のなかに。
久住君の優くてあたたかな、眼差しの行きつく先に。

交互に見ていた光と闇の中にさえ、いつだってみどりさんは、どこにだってきっといてくれた。

「みーちゃんがいてくれてよかった。ほんとうに」

もう雨と見分けがつかない。

「待って!行かないで!」

どれだけすがってみても、もうその姿はどこにもなく、ポケットからことりと、何かがこぼれた。

「みどりさん、この本……」

喉に詰まろうとする声を、今吐き出せるすべての息で言葉に変えた。

「この本は、二人のお話なんでしょう? あなたと、大きくなった久住君のために旦那さんが残した物なんでしょう?」

返事はなく、降りしきる雨の音がただ自分の声をかき消していった。
苦しいくらいに息が弾む。
臆病でくたくたで、乾いてヒビだらけのこの胸が、こんなにも強く脈打っている。

これは久住君のための大事な本。
もうこれ以上濡らしたりしたくなくて、それをぎゅっと抱きしめた。
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