きみが空を泳ぐいつかのその日まで
すぐ我に返ったけど、泣き声とざわめきでもう部屋はパニックになっていた。
案の定親父は先生に呼びだされ、相手の親にも謝罪する羽目になった。

申し訳なさそうに頭を下げるあの人を見上げて、怒鳴られるって思った。ちゃんと素直に謝ろうと思ってたんだ。

でも親父は屈みこんで俺の目を見ると、節張った大きな手でチビな俺の肘辺りをしっかりと掴んで静かに言った。

「きっと何か理由があったんだよな。気づけなくてごめんな。殴ったとき、理人も痛かったろ? 次にこの手を痛めるときは、自分じゃない誰かを守るときだといいね。お父さんはおまえの小さな手を大事に思ってるよ」って。

禍々しいほどの雨の轟音のなかで、やけにはっきりあのときの親父の声を聞いた。

すっかり記憶から抜け落ちていたことが、今になってなんでこんなにも鮮やかにフラッシュバックすんのか。

そんなこと今の今まで頭の隅っこにもなくて、これまで俺は苛立ちまかせに他人を殴ってばっかだったのに。
しかもそれをよりにもよって、なんでこんなときに思い出す?

時間にすればほんの数秒のことだったと思う。だけど喧嘩慣れしてるあいつらは、その一瞬の隙を突いてきた。

一発目をくらって景色が歪んでから消えるまでに、立て続けにまた何発かを浴びた。

やり返すことはできる。
なのになんで店舗裏の油染みた汚い壁に追い詰められて、せっかく握った拳を顔の前でクロスしてるんだろう。

やられてあっけなく座り込みそうになるけど、それさえ許されないくらい、すべての主導権は今こいつらにあった。

胸ぐらを掴まれ好き放題殴られて意識が遠退きそうになる。

遠くで誰かが呼んでる気がした。
ユキが泣いてんのかな。

可愛い弟もまさかの他人だった。
ほんとの兄弟じゃなかったなんて現実はクソだ。

でも声を聞くと、行かなきゃ、抱きあげてやらなきゃって思う。この手はもうそのためにあるってわかってる。

奴等の足元に転がりたくなんかない。
それだけはごめんだ。

でも殴ったら、この手はあいつらの血で汚れてしまう。そんな手で大事な弟に触れたりしたくない。

また親父の声が聞こえた。
他人のくせに偉そうに。

どうせ孤児になった俺に同情して引き取っただけだろ。それなのに本物の親みたいに気取りやがって。

殴られた反動で、何かがポケットから飛び出した。闇のなかでそれだけやけに明るくて、打ちつける雨粒が宝石みたいにまばゆく光りながら吸い寄せられてった。

しかも運悪くトキタの足元に転がって、早く水没すればいいのに律儀にまだ震えてる。

不意に神崎さんのぎこちない笑顔が揺らめいた。ヘタクソで、一生懸命な笑顔。

彼女が今、耳にスマホをあてて俺が電話に出るのを待ってるような気がして仕方ない。トキタに奪われる前にあれを叩き割らないと。

「それに触んな!」

でも伸ばした腕を踏みつけられた。

「ぐわ、ぁ!」
「もしもし?……あ、今一緒に遊んでるよぉ。おいでよ、駅ビル裏手のねー」

普通に会話を始めたトキタの猫撫で声に、狂いそうなほど強い怒りを感じた。

「ぜったい来んな! 聞くな!」

理不尽に殴られ蹴られて口のなかにできた血だまりが吹き出した。
ありったけの声で電話の向こうに叫んでも雨音に邪魔される。

身体がくの字に曲がって、腹のそこが痙攣するえげつない感触で、内臓を吐き出してしまうんじゃないかと思った。

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