きみが空を泳ぐいつかのその日まで
なにかを思い出そうとすると、真っ先によみがえるのは優しくて清潔な匂いだった。

そうだ、二人乗りで登校して遅刻しそうになったあの日、久住君の自転車の後ろで思ったんだ。

小さな段差で彼の背中に頬が触れそうになったとき、桜の花弁を散らす風が甘い香りを運んできた。

それは彼の香りだって、誰かの匂いと同じだってふたりを重ねた。

もう、どうせ最後だ。
時間はないから。
駅はすぐそこだから。

そう思ってぎゅっと目を瞑り、そのまま彼の背中へ突進した。

「何?」

ビックリして立ち止まった彼の背から香るのは、街なかにも教室にもあふれている、主張ばかりが強い作り物の匂いだった。

深く呼吸して気がついた。
大好きだった香りがそこから消えてしまってる。

「……ごめんなさい」

すぐに離れて謝ったけれど、胸のうちには後悔が並々とあふれだしていた。

「ちゃんと前向いて歩けって。距離感おかしくない?」

ただぶつかったと思ったのか久住君は呆れていた。でもその声が泣いているみたいに聞こえて、いつまでも顔をあげられなかった。

「……もしもし。どーした。うん、そうだよ、駅前? すぐ行けるけど……わかった」

目線を上げると、急にかかってきた電話に出て簡単に会話を終えた彼が、ゆっくりと歩き出すところだった。

「改札まで行くから」
「えっ、でも」

駅より手前の大きなこの交差点で別れた方が、彼の家には近いはずなのに。

「母さんピンチらしい。途方に暮れてるって」

おずおずと後ろを付いていくと、改札前にあかちゃんを抱いてるワンピース姿の女性がいたからそれ以上近寄らないよう、足を止めた。

あの日、久住家を去るときに目に焼き付けた笑顔を思い出す。

離れた場所から見てもやっぱり綺麗な人だとわかる。でもどこか顔色が悪くて、少し疲れているみたい。
久住君ははそっちへまっすぐ歩いていった。

「あの人に届け物だろ? なら俺が……」
「やだ、あたしがいく」
「なんで?」

パンパンに太った健康そうなあかちゃんは、涙をためた澄んだ瞳で久住君の姿を捉えると、火が付いたように泣き出してしまった。

「ちょっとだけユキと離れさせて? お願い、ノイローゼになりそうで」

抱いていたあかちゃんを座らせると、ベビーカーをこっちに突き出してきた。

「何だよそれ」
「理人のせいだよ、部活とか友達優先になってちっともユキの面倒見てくれないんだもん。頭冷やしたらまた頑張るからさ、今夜ユキのことお願いね」
「ちょ、母さん!」

ボリュームのつまみが壊れてしまったように泣いているあかちゃんを置いて、彼女は改札の向こうに足早に消えてしまった。
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