夢みたもの
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「お母さん」


仕事中の母は、捜すまでもなかった。


ピアノに向かう母の背中。

幼い頃から

何度、この背中を見つめてきただろう‥?


声をかけていいのか分からなくて‥‥

『お母さん』と呼んで良いのか分からなくて‥‥

いつも戸惑っていた



でも、これからは違う。



もう遠慮しなくていい。

心から母と呼べる。

その事が、改めて嬉しかった。



譜面に書き込みをしながらピアノを弾いている母。

その後ろ姿を見つめながら、あたしはもう一度母を呼んだ。


「お母さん」

「え?‥‥あぁ、ひなこ帰ってたの?」

「うん」


「そう‥何処に出かけてたの?航平君と一緒だったんでしょ?」

「うん‥ちょっと‥」


書き込みが気に入らないのか、書いた箇所に×を書き入れると、母は伸びをしながらあたしを振り返った。


「あら‥もうこんな時間?夕食の支度しなくちゃ」


最近、視力が落ちたと仕事の時に眼鏡をかけるようになった母。

その眼鏡を外しながら、あたしを見て首をかしげた。


「どうかした?」

「‥‥うん」


あたしは小さく頷くと、母に一歩近付く。


「今日ね、航平と‥懐かしい場所に行って来たの」

「懐かしい場所?」

「うん」

「‥‥」

「全ての始まりの場所」

「‥‥」


訳が分からないという様子で首をかしげた母。

そんな母に笑いかけると、あたしは鞄に手を入れた。



さっきから

ずっと存在を主張し続けている日記。

おじさんだけじゃない‥色んな人の思いが詰まった日記。



あたしは、それをそっと母に差し出した。




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