河童
「父と兄は、母の実家の方で新しく店を開きました。規模が小さいので、それなりに順調なようです。私も気ままな生活を送って、煙草代に困らない程度には収入もあります。薔子さんが気に病むことはありません」
茶葉を入れ替え、先ほどより多く入れて、沸騰した湯を注いだ。
今度はどろりと濃い液体が、急須から落ちてきた。
「私のことより、今はご自身の方が大変でしょう」
薔子さんはこの春、三本硝子の令息と婚姻が決まっていた。
輿入れとなったら新聞に写真も載ったであろうが、昨日の新聞に小さく『ご婚礼は延期の見込み』とあった。
暗緑の茶を熱そうにすすってさっぱりと笑う。
「父が秀晴さまにしたのと同じことを、今度はされただけのことです」
「私は男だから平気です。むしろ自由でいい」
薔子さんと婚約したのは、彼女が五歳のときだった。
私は留学先の米国から帰国し、父の会社で仕事を始めたばかりだった。
「婚約」の意味をどれほど理解しているのかわからない薔子さんが、「ひではるさま」と笑顔で迎えてくれるたび、哀れでならなかった。
ずっと、哀れなひとだと思っていた。
「秀晴さまが良くても、わたしは違います」
「河童です」と言ったときのような、すがるような声だった。
「わたし、十七になりました」
「はい」
「もし今、五歳の子を許嫁だと言われたら、わたしはきっと子ども扱いしてしまいます。将来夫婦になると、わかっていてもです」
火鉢の炭がパチリとはぜた。
できるだけゆっくり炭を足して、何度も炭の位置を整える。
目を合わせない私に構わず、薔子さんは身体ごとこちらに向けて話をつづけた。
「はじめて会ったときから、秀晴さまは『薔子さん』と呼んでくださいました。そして決して『秀晴お兄さま』とは呼ばせませんでした。いつでもひとりの人間として、女性として扱ってくださったんです。わたしはそれを当たり前のように受け入れてきましたけれど、秀晴さま以外、そんな方はいませんでした」
「たかだか呼び方の話ですよ」
「襁褓が取れたばかりの子どもを押し付けられて、さぞ困ったことと思います。けれどわたしは幸せでした。年をとるにつれ、いろいろなことがわかるようになって思いました。秀晴さまは、精一杯わたしを慈しもうとしてくださっていたのです。それはわたしが望む気持ちと少し違いますけれど、愛情を向けてくださいました」
硝子を影が落ちると思ったら、外は雪が降っていた。
先程まで晴れていたのに変わりやすい。