純潔花嫁―無垢な新妻は冷徹社長に一生分の愛を刻まれる―
「俺の前で初めて笑ったな」
ワイングラスに手を伸ばす時雨が和やかに言い、睡はそういえばそうだと真顔になった。昨日からずっと緊張していて表情も硬かったが、いつの間にか変な力は抜けている。
時雨が自分のことを〝俺〟と呼ぶのも初めて聞き、自分たちの間にある壁が少し崩れてきた気がした。
「菊子さんの料理は美味いだろう。これが食べたくて毎日帰ってきているようなものだよ」
「し、時雨様……!」
胸の前で祈るように手を組み、感動している菊子。大袈裟に反応するところが可愛らしいなと思いながら、睡は尋ねる。
「菊子さんはずっとここで女中をしていらっしゃるのですか?」
「元は、夫の家の人間が代々九重家の使用人として勤めておりました。その夫もずいぶん前に亡くなって、娘も嫁いでしまったので私が引き継いでいるんです」
なるほどと頷いた睡は、そういえば九重家の人々はどうしているのだろうと今さらながら気になった。今この家に時雨以外の人はいないが、これから帰ってくるのだろうか。
「時雨さんのご家族は?」
「母は十年前に、父は去年病で亡くなった。それで父の会社を継いだってわけだ。兄弟もいないんでね。親戚は遠い地で暮らしていてほとんど関わりがない」