あまいお菓子にコルセットはいかが?
 目の前で起きた惨劇に、アンリは、ちょうど一年前に起きた婚約破棄の記憶を呼び覚まされていた。
 ブランディーヌと婚約破棄が成立したあの日から、目の前の現実は全て音を立てて崩れ去り、ボロボロに傷ついた心は日々アンリを苦しめる。

 それらを忘れるために軍の厳しい訓練はちょうど良かった。
 婚約破棄直後、発熱して倒れたあとは眠れない日々を過ごしたのに、軍の訓練で疲れ果てた体はベッドに入ると数秒で眠りに落ちることができたからだ。

 苦い記憶から逃れたくて、忘れたくて、必死に訓練に没頭した。

 アンリの軍入隊直後は、意図せず過酷なものとなった。
 確実に入隊したいからと親に書いてもらった推薦状は、体型からくる適性の疑わしさと相まって不正入試の噂を立てられた。
 もちろんそんな事実は無かったけれど、面白半分に噂したい人間にとって真実などどうでもいいのである。
 日々の訓練では、周囲から出遅れ足を引っ張ることが目立った。丸々としたアンリが泥だらけになって転ぶさまは、さぞ面白いのだろう。冷笑と野次が投げかけられ、その度に羞恥に駆られた。
 婚約破棄の醜聞も、さして間を置かずに知れ渡ったので、ついには直接面白半分で話を聞きにくる同僚まで現れたのだった。

 悔しさや、惨めさ、憤りや、自己嫌悪が入り乱れる日々の中で、絶えず湧き上がる怒りを、己の体を鍛えることで昇華する。

 たった一人、上官のフランシスがアンリの訓練を事細かに見てくれたことで、この活力は一切の無駄なく肉体へと還元され、三ヶ月後には、芋虫がある日突然蝶になるレベルの変貌を遂げた。

 華麗なるビフォーアフターの衝撃は、アンリの今までの評価を木っ端微塵に吹き飛ばす。
 新たな『アンリ・シルフォン』という人に接するかのように、周囲は彼との関係を綺麗にリセットしたのだった。




 蒼白な顔で淑女の微笑みを絶やさないコレットのショックが、強く掴まれた腕から伝わってくる。

 アンリの婚約破棄は、シルフォン家の庭園でブランディーヌと二人きりの時であり、側にメイドが数人いたくらいの場所で起こった。それに比べ、今は舞踏会の会場であり、周囲には沢山の人が行き来する。噂好きの貴族たちの視線がこちらに集まりつつあった。つまり公開処刑に近い状態だ。

婚約者本人(ジルベールさん)が直接姉さんに伝えないなんて! 公衆の面前で浮気相手(カヌレア侯爵家令嬢)が周囲にぺらぺら言いふらしているのを止めようとしないなんて!)

 もし今日出会わなくても、どこかでその噂がコレットの耳に入らないとも限らないではないか。そんなことすら思いつかない短慮な男だったのかと、目の前で困惑した表情をとるジルベールを軽蔑した。

(僕が受けた婚約破棄なんて、比べ物にならないくらい酷い仕打ちじゃないか!)

 コレットは、ちゃんと自分の悪いところに気付いてダイエットを始めていた。その裏でジルベールは浮気をしていたのである。

(僕は気付けなかった分、落ち度があったけど姉さんは違う。ちゃんとしたのに――あなたのために、あんなに頑張っていたのに!)

 不誠実なジルベールと不徳義なフルールに傷つけられたコレットが、不憫でならなかった。
 自分の身に起きた不幸より酷いことが、目の前で愛する人に降りかかるほど、憎悪を掻き立てることなどあるだろうか。

 ――殺してやりたい

 ごく自然に、その言葉が浮かび上がる。

 ――その舌を引っこ抜いて、目玉をほじくり出して、首を落としてやりたい

 憎悪から殺意へと変わるのに、たいして時間はかからなかった。そしてその変化を隣に立っていたフランシスは敏感に感じ取る。

「アンリ、すこし休憩室に行かないか? ここは何だか空気が悪い」

「……はい」

「コレットもすまないが、少し私に付き合ってくれるだろうか?」

「はい、喜んで」

 フランシスは、コレットとアンリの二人を連れて、足早に休憩室へと移動した。
 ショックのせいで笑顔を絶やさず、ぼんやりと宙を眺めるばかりのコレットを休憩室のソファに座らせると、少々心配ではあったが、彼女を残して部屋の外へアンリを連れ出す。その顔が見たこともないほどに凶悪なことを、まずは何とかしなければならなかった。

「アンリ、まずは君が気持ちを落ち着かせてくれ」

「――どうしてですか? 姉にあんな仕打ちをした奴を僕は絶対に赦すことなどできません」

「今のアンリが本気になったら、ジルベールなど瞬殺だろう。だが、私はアンリを殺人犯にするために育てたわけじゃないんだ」

 尊敬するフランシスの言葉に、憎悪に染まったアンリの瞳は揺らぐ。
 大切な人がいる。家族にシルフォン家に仕える家人、目の前のフランシス。軍では少しだけ気心知れる同期ができたところだった。
 そういった人たちを絶望の淵に立たせるような、そんな行動を、あんな奴らを理由に実行に移すべきではないと気付き、殺意を押しとどめた。

「――取り乱してしまい申し訳ありませんでした。止めて頂いてありがとうございます」

「いや。アンリの気持ちは至極まっとうだよ。居合わせた私ですら吐き気と怒りで目の前が赤く染まった」

 優しいフランシスのこの言葉で、アンリはジルベールをコレットの周囲から徹底的に排除しようと決意する。

「僕は、姉の婚約解消をすすめます。アイツは少し迷いがあるようにも見えましたから、変な気を起こす前にケリをつけます」

「私も、今日の件を口添えしよう。別で婚約を進めるなら、その前に今の婚約を清算するべきだ。それを我が家主催の舞踏会で露呈させたのだから、文句の一つも言わねばなるまい」

 話がまとまり休憩室へと戻ると、コレットは変わらず宙を眺めていた。

「姉さん、そろそろ帰ろう」

「なら、主催のジェラト公爵様にご挨拶しないと。今も中抜けしているから気になっていたのよ」

「いや、その必要はない。私から伝えておくよ。今日は大変だったろうから、帰ってゆっくり休んでくれ」

「いけませんわ。ちゃんとしないと。私はダメなところがあるから、そういうことはキチンとしないといけないのです」

 フラフラと立ち上がり、移動し始めたコレットをアンリが押しとどめる。

「ちゃんとしないと。私に悪いところがあるせいなのよ。だから間に合わなかったの。仕方ないのだわ」

 それが何のことを言っているのか分かり、アンリの顔はくしゃくしゃに歪んだ。
 貴族同士の婚約が家の都合で解消するなど珍しい話ではない。けれどブランディーヌにしろ、ジルベールにしろ、その段取りが非常識だった。予告なくいきなり喰らわされた相手の身にもなってみろと叫びたかった。

 もっと他にやりようがいくらでもあったはずなのに、よりにもよって一番相手を傷つける方法をとったのだから。



 ――絶対に赦さない

 一年前の婚約破棄の怒りも相まって、アンリは大切な人たちの全てを守り通すのだという正義感に闘志を燃やしたのだった。
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