惡ガキノ蕾
~だんごの告白~
先《さっき》まで四人連れが座っていたテ―ブルを片付け戻って来ると、丁度トイレから出てきただんごと鉢合わせた。目が合って、今日初めての「久し振り」と「お絞り」を同時に渡す。指先が触れたほんの一瞬、微妙な空気が流れた気がしたのはあたしの思い過ごしだろうか。
カウンターに戻って冷えたお絞りを首の後ろに載せただんごを、更に冷やかすような太一の言葉。
「でもお前、たかがフォ―クダンスでそんなにテンパるなんて、もしかして…はなみの事…」
(えっ!)太一のその言葉を、あたしの顔の両脇、顎関節《がくかんせつ》の数センチ上に設置された通称"耳"と呼ばれる感覚器官が、一言半句洩らす事なく捕捉する。
「なに!マジか!?あ、はなみ、卵焼きちょうだい」
すっかりだんごと打ち解けた力也が調子を合わせた。
「ああっ!お前、赤くなってんじゃねえよ。おい、どうすんだはなみ?」と言う太一からの突然の振りに、えふっ、うやんっ、ってか戸惑い過ぎて正常な母国語が出てこないあたし。正直、結構カッコ良くなってんのも認めるし、背もあたしより高くなっちゃってるけど…いや、だも…違った、でも、そうは言っても、会ったのだって五年振りだし…。等《など》と、とりとめのない考えが頭の中で渦巻いて、ひとつも明確な形を成さない。ど―しちゃったんだろ、あたし。
「俺…」と、それまで照れたように俯い《うつむい》ていただんごが、徐《おもむろ》に顔を上げて話し始める。(何!…何、何、何!?)
「俺…転校する時迷ってたんだけど、結局勇気が無くて言えなくて…」
太一と力也が唐突に始まっただんごの真剣な話しぶりに、グラスを運ぶ手を止めた。一樹は何時もの如く《ごとく》既にどろ酔いで撃沈していて、今のところ浮かび上がって来る気配は無い。
「今回の親の離婚で、母親の実家があるこの町に戻って来る事になって…。親が離婚すんのはやっぱ悲しかったけど…だけど俺、この町に戻って来るって事だけは、すっげ―嬉しかったんだ。嬉しくってほんと…越して来る日まで、色々考えたら眠れなくなる夜とかもあって…」
ちょ、ちょっと待ってよ。そりゃぁあたしだって久し振りに会って嬉しく無い訳じゃないけど、何でだろ…いやだ恥ずかしい。
太一と力也が(良かったな)と、労る《いたわる》ような目をあたしに向けてくる。あんた達にまで心配掛ける程、あたしゃぁモテないと思われてたんだね、そいつは悪かったな。ハッ、気が付きゃきむ爺も煙管《キセル》吹かしながら、時々手拭いで目頭押さえたりして…。みんなごめんね、心配させて。だけど小学校から五年間もずっと想って貰ってたんだって考えたら、なんだかあたしも…やばい、泣いてしまいそうだ。
──前触れ無く、だんごが勢いよく立ち上がった。
「フォ―クダンスの時もドキドキして来て口の中はカラッカラになるし、もう何が何だか分かんなくなっちゃちゃちゃ、ちゃって…、あの頃からずっと…ずっと好きだったんだ。…だ、だから…だからはなみ!」
少し潤んだだんごの瞳が、あたしを見詰めている。…この感じ…キタッ―!人生で二度目の告白、キタッ―!どうせならもうちょっと気合い入れて化粧しときゃ良かった―っ!よし。慌てない、慌てない。大丈夫、いいよ。受け止める、どうぞ。
「だからはなみ、凜の連絡先教えてくれっ!頼む!」
ブツンッ───────────────
──────────────────────────────────────────────────────フグッ。アレ…ナンダ…コレ。…マテ、ダイジョウブ。イキヲスッテ、ハイテ…。アレッ、ハイテスッテダッタッケ、アレッ───
「──い。おい、はなみ」
「へ??」
「大丈夫……か?」
朧気《おぼろげ》な視界の中で、太一と力也があたしの顔を下から覗き込んでいた。二人の阿呆面《あほづら》を見て我に還ったあたしは、なんとか正気を取り戻す。そこから、普通に生きてたらまず使う事の無い量の気力を振り絞って口を開いた。
「大丈夫かって……何が?大丈夫に決まってんでしょ…」
「やりい―っ!ありがとう、はなみ!俺の電話番号教えるから、後でメ―ルで送ってくれよ」
能天気にはしゃぐだんごの声が遠くに聞こえる。そしてこれは…これは何なのだろうか?沸き起こるこの気持ちは。もしかしたら人はこれを殺意と呼ぶのだろうか。何時の間にか生卵を握り潰してぐちゃぐちゃになった手を洗いながら、あたしは五年前の記憶を引っ張り出していたのだった。
……小学校四年生…。──そうだ。凜の名字は"佐々木"。あの頃はあたしもまだ"桜木"だったから、名前の順では凜のひとつ前。って事は、だんごはあたしの次に回って来る筈だった、凜を想ってドキドキしてたって訳だ。あ―そうかい。そういう事ね…。何だ、何だこの振られた訳でも無いのに、あたしを襲う未曾有《みぞう》の惨めな気持ちは!……本当に大丈夫なんだろうか?あたし。
自分への問い掛けに、奥歯を噛み締めながら頷いて顔を上げると、目が合った太一と力也が、慌ててテ―ブルの上を片付け始める。きむ爺はというと、そろゝ店を閉めようかというこの時間になって、注文にも無い大量のキャベツの千切り作っちゃってるし。はぁ、何奴《どいつ》も此奴《こいつ》も…。
卵焼きを頼まれていたのを思い出して、ボウルに卵を割り入れる。中に入れるのは砂糖と溜め息、後はひと摘まみの塩と出汁《だし》の替わりの悔し涙。
「い…今、思い出したんだけど、そう言えばだんごの母ちゃんの実家って、火事になった家の近くなんだよな、なっ!」
何かに取り憑かれたみたいにテ―ブルを拭いていた太一が、無理くり話題を変えてくる。
「はい?…あ―、そうっすね。俺が先月越して来た時はまだ消火した時のままで、燃え残った木組みもまんま残ってましたよ。先週位から、解体し始めてるみたいっすけどね」
カウンタ―に卵焼きを出してから、お座敷の御夫婦にきむ爺が支度した鍋の材料を運ぶ。戻って来た時にはもう、カウンタ―の話題は火事になった家の周りで最近問題になっているという、落書きの話しに移っていた。
「そんなひでえの?」と、だんごの話しに合いの手を入れて、太一が卵焼きを口に放り込む。
「うちはまだやられて無いっすけど、表札真っ赤っかに塗り潰されたりとか、車にスプレ―ですんげ―綺麗なグラデ―ションのうんこ描かれたりとか。…あ、食べてるとこすんません。でも一番酷かったのは、三軒隣に居た、でかくて真っ白な紀州犬なんですけど、一晩明けたら豹柄に変わっちゃって、それ見たその家の婆ちゃんが泡吹いて救急車で運ばれて…。ま、とにかく、ガキのイタズラにしちゃ悪質っすよ」と答えただんごも卵焼きに箸を伸ばす。
「なんだか、俺達の住んでる町でって考えたらムカつく話だよな」そう言って、卵焼きの皿に手を付けようとした力也の、「ふざけんな!俺まだひとつも食べちゃいないんだぞ!」
みんながつい五分前までの一連の記憶を失って、何事も無かったみたいに盛り上がる中、あたしも澄ました顔で洗い物を始める。鼻歌の替わりに口づさむのは、
「祓え給い浄め給え、祓え給い浄め給え、祓え給い浄め給え…」
──一向に起きる気配を見せない一樹に見切りを付けて、太一達が帰って行ったのが十一時半。他にお客さんが居なくなってしまって気を遣わせたのか、間も無くお年寄りの御夫婦も席を立った。帰り際、きむ爺と刺身の肝ダレがどうだとかこうだとか、楽しそうに話す顔を見て、また来てくれたらいいのに…なんて思ったりしながら、寄り添い歩く後ろ姿を見送った。近寄り過ぎず、かといって離れるでも無い二人のその距離感に又少し癒され、暖簾を仕舞う。
こうして災厄に見舞われた、胃もたれする程ボリュ―ム満点の一日が終わったのであった。…はぁ―あ。
──閉店後。
十六歳のピッチピチお肌でさえも、一足毎に《ごとに》老け込んでいきそうな程、ぱっさぱさに乾燥した外気の中、何時もの遊歩道をきむ爺と歩く。サンダルの下で潰された干からびた土塊《つちくれ》達は、その姿を砂塵《さじん》に変えて川風に乗ると、新しい住み処《すみか》へと運ばれて行った。
立春を過ぎた東京の空はもう十日も雨を落とさずに、深く息を吸うと、胸に入り込んだ夜気《やき》が、肺の隅々まで渇かしてしまう。小さく咳き込んで、束の間あたしは足を止めた。
「ねえ、きむ爺。そのキャベツの千切りどうすんの?」
「ああ、これかい…こいつは…ほら、あの…今日、じゃねえや…明日、明日の朝、トンカツと一緒に…。昔からキャベツは朝多目に摂った方がいいんだって言うからねえ」
トンカツ?そのキャベツの量に合わせたら、朝からトンカツ五人前以上はいっとかないと釣り合い取れなさそうですけど、へ―そうですか。キャベツは朝食べた方がいい?昔から?へ―。
キャベツの入った袋を提げたきむ爺に八つ当たりしている内に、あの夜、二人組と打つかった場所が近付いて来た。もう一度立ち止まったあたしは、堤防の上から火事になった家の方角に目を向けた。
「彼処《あそこ》んとこの家の周りでも、最近になって落書きがひでえんだってよ」
隣に並んだきむ爺が、白い息と一緒に吐き出す冷ややかな言葉。その言葉の持つ棘《とげ》が喉に引っ掛かったみたいに顔を歪ませながら。
「先《さっき》の話じゃあ、だんご君のとこは二番目に火事んなった家の近くらしいけど、その辺だけじゃねえらしいや。一件目から四件目まで、火事んなったとこの周りは何処も一月辺りから落書きされて困ってんだってえ、こないだ源ちゃんが回って来た時話して行ったよ。そりゃあ、ひでえもんだってねえ」
源ちゃんっていうのは、この辺りを回っている夜鳴きラ―メンのお爺ちゃん。年はきむ爺とそう変わんない筈。
「ふぅ―ん」
あたしは殊更《ことさら》感情の色が言葉に付かない様に気を付けて相槌を打つ。考えてもみない内から、上っ面だけで同情してる素振りは見せたくなかったんだ。
もし自分達の住んでる家がスプレ―やペンキで落書きされたら…。当たり前に怒るだろうけど、その気持ちを打つける相手がそこに居ないとしたら、行き場の無い怒りや、大事な物を一方的に汚された悲しみとか悔しさはどうすればいいんだろう。言うまでも無い事だけど、あたしの頭じゃ、答えなんて直ぐ《すぐ》には出て来やしない。
「ペンキとかスプレ―ってえのは、子供の落書きにしちゃあちょいとなあ…」
火事になった辺りに向けて、目を細めるきむ爺の横顔。年寄りのこういう顔って、言葉より想いの方が直《じか》に伝わって来て、考えさせられちゃうんだよね。この時も、被害に遭った人達の気持ちを考えだしたら、胸の中に芽生えた感情を言葉にするのは虚しくて、あたしに出来る事は黙る事だけだった。きむ爺もそれ以上は話そうとしない。
その夜は、家に帰ると、お風呂に入ってすぐに寝た。だんごの事があったからかな、その夜見た夢の事は話したくない。
先《さっき》まで四人連れが座っていたテ―ブルを片付け戻って来ると、丁度トイレから出てきただんごと鉢合わせた。目が合って、今日初めての「久し振り」と「お絞り」を同時に渡す。指先が触れたほんの一瞬、微妙な空気が流れた気がしたのはあたしの思い過ごしだろうか。
カウンターに戻って冷えたお絞りを首の後ろに載せただんごを、更に冷やかすような太一の言葉。
「でもお前、たかがフォ―クダンスでそんなにテンパるなんて、もしかして…はなみの事…」
(えっ!)太一のその言葉を、あたしの顔の両脇、顎関節《がくかんせつ》の数センチ上に設置された通称"耳"と呼ばれる感覚器官が、一言半句洩らす事なく捕捉する。
「なに!マジか!?あ、はなみ、卵焼きちょうだい」
すっかりだんごと打ち解けた力也が調子を合わせた。
「ああっ!お前、赤くなってんじゃねえよ。おい、どうすんだはなみ?」と言う太一からの突然の振りに、えふっ、うやんっ、ってか戸惑い過ぎて正常な母国語が出てこないあたし。正直、結構カッコ良くなってんのも認めるし、背もあたしより高くなっちゃってるけど…いや、だも…違った、でも、そうは言っても、会ったのだって五年振りだし…。等《など》と、とりとめのない考えが頭の中で渦巻いて、ひとつも明確な形を成さない。ど―しちゃったんだろ、あたし。
「俺…」と、それまで照れたように俯い《うつむい》ていただんごが、徐《おもむろ》に顔を上げて話し始める。(何!…何、何、何!?)
「俺…転校する時迷ってたんだけど、結局勇気が無くて言えなくて…」
太一と力也が唐突に始まっただんごの真剣な話しぶりに、グラスを運ぶ手を止めた。一樹は何時もの如く《ごとく》既にどろ酔いで撃沈していて、今のところ浮かび上がって来る気配は無い。
「今回の親の離婚で、母親の実家があるこの町に戻って来る事になって…。親が離婚すんのはやっぱ悲しかったけど…だけど俺、この町に戻って来るって事だけは、すっげ―嬉しかったんだ。嬉しくってほんと…越して来る日まで、色々考えたら眠れなくなる夜とかもあって…」
ちょ、ちょっと待ってよ。そりゃぁあたしだって久し振りに会って嬉しく無い訳じゃないけど、何でだろ…いやだ恥ずかしい。
太一と力也が(良かったな)と、労る《いたわる》ような目をあたしに向けてくる。あんた達にまで心配掛ける程、あたしゃぁモテないと思われてたんだね、そいつは悪かったな。ハッ、気が付きゃきむ爺も煙管《キセル》吹かしながら、時々手拭いで目頭押さえたりして…。みんなごめんね、心配させて。だけど小学校から五年間もずっと想って貰ってたんだって考えたら、なんだかあたしも…やばい、泣いてしまいそうだ。
──前触れ無く、だんごが勢いよく立ち上がった。
「フォ―クダンスの時もドキドキして来て口の中はカラッカラになるし、もう何が何だか分かんなくなっちゃちゃちゃ、ちゃって…、あの頃からずっと…ずっと好きだったんだ。…だ、だから…だからはなみ!」
少し潤んだだんごの瞳が、あたしを見詰めている。…この感じ…キタッ―!人生で二度目の告白、キタッ―!どうせならもうちょっと気合い入れて化粧しときゃ良かった―っ!よし。慌てない、慌てない。大丈夫、いいよ。受け止める、どうぞ。
「だからはなみ、凜の連絡先教えてくれっ!頼む!」
ブツンッ───────────────
──────────────────────────────────────────────────────フグッ。アレ…ナンダ…コレ。…マテ、ダイジョウブ。イキヲスッテ、ハイテ…。アレッ、ハイテスッテダッタッケ、アレッ───
「──い。おい、はなみ」
「へ??」
「大丈夫……か?」
朧気《おぼろげ》な視界の中で、太一と力也があたしの顔を下から覗き込んでいた。二人の阿呆面《あほづら》を見て我に還ったあたしは、なんとか正気を取り戻す。そこから、普通に生きてたらまず使う事の無い量の気力を振り絞って口を開いた。
「大丈夫かって……何が?大丈夫に決まってんでしょ…」
「やりい―っ!ありがとう、はなみ!俺の電話番号教えるから、後でメ―ルで送ってくれよ」
能天気にはしゃぐだんごの声が遠くに聞こえる。そしてこれは…これは何なのだろうか?沸き起こるこの気持ちは。もしかしたら人はこれを殺意と呼ぶのだろうか。何時の間にか生卵を握り潰してぐちゃぐちゃになった手を洗いながら、あたしは五年前の記憶を引っ張り出していたのだった。
……小学校四年生…。──そうだ。凜の名字は"佐々木"。あの頃はあたしもまだ"桜木"だったから、名前の順では凜のひとつ前。って事は、だんごはあたしの次に回って来る筈だった、凜を想ってドキドキしてたって訳だ。あ―そうかい。そういう事ね…。何だ、何だこの振られた訳でも無いのに、あたしを襲う未曾有《みぞう》の惨めな気持ちは!……本当に大丈夫なんだろうか?あたし。
自分への問い掛けに、奥歯を噛み締めながら頷いて顔を上げると、目が合った太一と力也が、慌ててテ―ブルの上を片付け始める。きむ爺はというと、そろゝ店を閉めようかというこの時間になって、注文にも無い大量のキャベツの千切り作っちゃってるし。はぁ、何奴《どいつ》も此奴《こいつ》も…。
卵焼きを頼まれていたのを思い出して、ボウルに卵を割り入れる。中に入れるのは砂糖と溜め息、後はひと摘まみの塩と出汁《だし》の替わりの悔し涙。
「い…今、思い出したんだけど、そう言えばだんごの母ちゃんの実家って、火事になった家の近くなんだよな、なっ!」
何かに取り憑かれたみたいにテ―ブルを拭いていた太一が、無理くり話題を変えてくる。
「はい?…あ―、そうっすね。俺が先月越して来た時はまだ消火した時のままで、燃え残った木組みもまんま残ってましたよ。先週位から、解体し始めてるみたいっすけどね」
カウンタ―に卵焼きを出してから、お座敷の御夫婦にきむ爺が支度した鍋の材料を運ぶ。戻って来た時にはもう、カウンタ―の話題は火事になった家の周りで最近問題になっているという、落書きの話しに移っていた。
「そんなひでえの?」と、だんごの話しに合いの手を入れて、太一が卵焼きを口に放り込む。
「うちはまだやられて無いっすけど、表札真っ赤っかに塗り潰されたりとか、車にスプレ―ですんげ―綺麗なグラデ―ションのうんこ描かれたりとか。…あ、食べてるとこすんません。でも一番酷かったのは、三軒隣に居た、でかくて真っ白な紀州犬なんですけど、一晩明けたら豹柄に変わっちゃって、それ見たその家の婆ちゃんが泡吹いて救急車で運ばれて…。ま、とにかく、ガキのイタズラにしちゃ悪質っすよ」と答えただんごも卵焼きに箸を伸ばす。
「なんだか、俺達の住んでる町でって考えたらムカつく話だよな」そう言って、卵焼きの皿に手を付けようとした力也の、「ふざけんな!俺まだひとつも食べちゃいないんだぞ!」
みんながつい五分前までの一連の記憶を失って、何事も無かったみたいに盛り上がる中、あたしも澄ました顔で洗い物を始める。鼻歌の替わりに口づさむのは、
「祓え給い浄め給え、祓え給い浄め給え、祓え給い浄め給え…」
──一向に起きる気配を見せない一樹に見切りを付けて、太一達が帰って行ったのが十一時半。他にお客さんが居なくなってしまって気を遣わせたのか、間も無くお年寄りの御夫婦も席を立った。帰り際、きむ爺と刺身の肝ダレがどうだとかこうだとか、楽しそうに話す顔を見て、また来てくれたらいいのに…なんて思ったりしながら、寄り添い歩く後ろ姿を見送った。近寄り過ぎず、かといって離れるでも無い二人のその距離感に又少し癒され、暖簾を仕舞う。
こうして災厄に見舞われた、胃もたれする程ボリュ―ム満点の一日が終わったのであった。…はぁ―あ。
──閉店後。
十六歳のピッチピチお肌でさえも、一足毎に《ごとに》老け込んでいきそうな程、ぱっさぱさに乾燥した外気の中、何時もの遊歩道をきむ爺と歩く。サンダルの下で潰された干からびた土塊《つちくれ》達は、その姿を砂塵《さじん》に変えて川風に乗ると、新しい住み処《すみか》へと運ばれて行った。
立春を過ぎた東京の空はもう十日も雨を落とさずに、深く息を吸うと、胸に入り込んだ夜気《やき》が、肺の隅々まで渇かしてしまう。小さく咳き込んで、束の間あたしは足を止めた。
「ねえ、きむ爺。そのキャベツの千切りどうすんの?」
「ああ、これかい…こいつは…ほら、あの…今日、じゃねえや…明日、明日の朝、トンカツと一緒に…。昔からキャベツは朝多目に摂った方がいいんだって言うからねえ」
トンカツ?そのキャベツの量に合わせたら、朝からトンカツ五人前以上はいっとかないと釣り合い取れなさそうですけど、へ―そうですか。キャベツは朝食べた方がいい?昔から?へ―。
キャベツの入った袋を提げたきむ爺に八つ当たりしている内に、あの夜、二人組と打つかった場所が近付いて来た。もう一度立ち止まったあたしは、堤防の上から火事になった家の方角に目を向けた。
「彼処《あそこ》んとこの家の周りでも、最近になって落書きがひでえんだってよ」
隣に並んだきむ爺が、白い息と一緒に吐き出す冷ややかな言葉。その言葉の持つ棘《とげ》が喉に引っ掛かったみたいに顔を歪ませながら。
「先《さっき》の話じゃあ、だんご君のとこは二番目に火事んなった家の近くらしいけど、その辺だけじゃねえらしいや。一件目から四件目まで、火事んなったとこの周りは何処も一月辺りから落書きされて困ってんだってえ、こないだ源ちゃんが回って来た時話して行ったよ。そりゃあ、ひでえもんだってねえ」
源ちゃんっていうのは、この辺りを回っている夜鳴きラ―メンのお爺ちゃん。年はきむ爺とそう変わんない筈。
「ふぅ―ん」
あたしは殊更《ことさら》感情の色が言葉に付かない様に気を付けて相槌を打つ。考えてもみない内から、上っ面だけで同情してる素振りは見せたくなかったんだ。
もし自分達の住んでる家がスプレ―やペンキで落書きされたら…。当たり前に怒るだろうけど、その気持ちを打つける相手がそこに居ないとしたら、行き場の無い怒りや、大事な物を一方的に汚された悲しみとか悔しさはどうすればいいんだろう。言うまでも無い事だけど、あたしの頭じゃ、答えなんて直ぐ《すぐ》には出て来やしない。
「ペンキとかスプレ―ってえのは、子供の落書きにしちゃあちょいとなあ…」
火事になった辺りに向けて、目を細めるきむ爺の横顔。年寄りのこういう顔って、言葉より想いの方が直《じか》に伝わって来て、考えさせられちゃうんだよね。この時も、被害に遭った人達の気持ちを考えだしたら、胸の中に芽生えた感情を言葉にするのは虚しくて、あたしに出来る事は黙る事だけだった。きむ爺もそれ以上は話そうとしない。
その夜は、家に帰ると、お風呂に入ってすぐに寝た。だんごの事があったからかな、その夜見た夢の事は話したくない。