惡ガキノ蕾
~建国記念日 剣道大会~
こうして迎えた二月十一日の建国記念日。旗日。
日本全国津々浦々まで、皆々様おめでとう御座います。只今午前八時四十分。
あたしと双葉、優の三人は、本日剣道の大会が行われる東京武道館の駐車場に居た。試合が始まるのは九時からとなっていて、多分だけど、会場の中はまだ開会式の途中の筈だ。
凜からの電話の後、双葉も誘ったらあっさりOK。丁度というか毎度遊びに来ていた優が、「あたしもバイキング行きた―い」と仰って《おっしゃって》此方《こちら》も即決定。今日の運びと相成りました、って訳。
「もうそろ中に入ろうよ」
駐車場の脇に併設された簡易喫煙所。煙の中、当てずっぽうに外から声を掛けると、双葉と優が連れ立って出て来る。二人を見てザワつき始める何人かの若い男達。そうだろゝ。うちの姉どもは可愛いだろ。男達のざわめきを耳に届かせてはいるのだろうに、1ミリの関心も示さない二人の後に追いて《ついて》、喫煙所を後にした。
会場に入ると、中には白線で囲まれた試合場が四つ四角に並べられていた。その四つの試合場を眼下に置くあたし達の居る二階席は、ほぼ満席の賑わいを見せている。今年から始まった大会という割には、かなりの観客数。それらが作り出す熱気で、席に着いて五分も経つ頃には、家から着てきたダウンはもう膝の上に在った。
凜の説明だと、この大会は今日と三月三十一日の二日間に渡って行われ、中学生、高校生の部両方共、今日中にはベスト4が出揃うとの事だった。そして三月末の開催日には準決勝と決勝戰が行われて、その日の午後には表彰式といった流れになるらしい。
八時五十分。試合場の脇に設けてある大会役員席と区切られた一角に、紅白の旗を手にしたおじさん達が数人集まって来る。その後、川の字に並べられたテ―ブルも、1人、又1人と背広姿のおじさん達が席を埋めて行く。───「ん!?」
その時、テ―ブルに並ぶおじさん達の中に、見覚えのある顔を見付けた気がして、あたしは思わず目を擦った《こすった》。「あれっ?」、「いやっ」、「なんで?」擦り過ぎて視界が段々ぼやけてくる。……けど見間違いじゃない。大会役員席と銘打たれたテ―ブルに鎮座されていたのは、幻覚でも無い限り確かにあの征十郎だった。「うおぉぉぉうっ!!」秒で"唐木征十郎"の五文字をスマホに打ち込ぬむ。4Gの速度で届いた画面には、"政治結社大日本皇神會会長""株式会社JSC会長""青少年非行防止協会会長""志誠館 館長"etc…と、怪しくも立派な肩書きが並ぶ中、在りました"全日本剣道連盟役員"。という事は、最早《もはや》疑いようも無く、今この時、あそこに座っていらっしゃるのは唐木征十郎御本人に違い無かった。
なんなの政治結社って…、やばい世界の匂いがぷんゝなんだけど。怖っ、やだゝ。だけど、今一度冷静になって考えてみれば、あの時、診療所で身の危険を察知したあたしの勘は正しかったのだ。征十郎の存在に怯えながらも、遠目に観察を続けるあたし。
それから、どれ位の時間が経ったろう。
「あれ凜じゃね?」
唐突な優の声で試合場に目を向けると、待機場所に凜が姿を見せていた。反射的に声が出る。
「凜―っ!頑張って―っ!」
あたしに気付いた凜が、笑顔で片手を上げる。「あっ」凜の指差す先、向かい側の二階席で手を振る律っちゃんと目が合って、手を振り返す。「声でかっ」とか言いつつ優も、あたしに負けない位の大声で叫んだ。「凜KOしちゃえ―!」だって、ウケる。面を付けようとしていた凜が、あたし達に向かって両手で丸を作る。「?」なんだ、なんで丸?凜の視線を辿って横に顔を振ると、優の隣で立ち上がった双葉が親指を下に向けて笑っていた。
"やっちまえ"
それほど時間を置かずに凜の出番は来た。白線の外で一度立ち止まり、小さく礼をする。白が凜。中央近くまで歩を進め向かい合うと、蹲んで《しゃがんで》又礼。
──試合開始。
互いの竹刀が「パパンッ」と子気味よく触れ合う。「ドンッ!」と、踏み込む音がここまで聞こえて来て、「メッ胴―っ!」え?えっ?一斉に旗が上がって白三本。鬼っ早、凜ヤバい!双葉の前で張り切ってるとはいえ、早すぎるでしょ。て言うか、ほぼ一撃じゃん。竹刀と竹刀が触れたと思ったら、いきなり「胴―っ!」とか叫んで、あっという間に相手の横を抜けて行った。素人のあたしが見ても、文句無しの一本。…だったと思う。──二本目。今度は端《はな》から敵も攻め込んで来る。中央で相手とくっつく凜。あれじゃ近過ぎて叩けないと心配するあたしを余所《よそ》に、二人が離れて……と、あっ「メェ―ッンッ!」離れ際、凜が相手の面を打った様にも見えたけど…てゆうのも、ちゃんと見てた筈なのに、それでも良く分かんない位、凜の竹刀の動きが速かった。…すげ―な人間って。又白が三本上がった。一礼して凜が退場する。…終わってみれば、二本で二分掛かったか掛からないかだった。って、──あれ?なんか痛い。何だ?痛みの源泉を探して視線を運ぶと、行き着いたのはあたしの太腿《ふともも》。乙女の柔肌に優のネイルが喰い込んでた。薬指のネイルが建国記念日を意識したのか、旭日旗《きょくじつき》だった所為《せい》で、赤い色を出血したのと勘違いして大いにビビるあたし。「ちょっと優、痛い」、あっ、と気付いてその手から力が抜ける。旭日旗って…。「フォ―ッ!!すっげ―、凜超ヤバい!」出し抜けに揚げた優の大声で、周りの視線があたし達に集中する。初めて見た剣道の試合に、優のボルテ―ジは最高潮。ボリュ―ムの調整はぶっ壊れてMAXから動かない。「今の見た?ねぇ見た?」と、頻り《しきり》に双葉に話し掛けているその声にも、周りを気にしている様子は全く無い。あたしも久し振りに見たけど、さすがは凜。危なげ無い。三年生が引退した二年生までの大会とはいえ、やっぱすげぇ。向かいの席で、優に負けないテンションで騒ぐ律っちゃんの姿が見える。名前入りの団扇《うちわ》ってコンサ―トか!優の相手してる双葉もなんだか嬉しそうだし、…来て良かった。──続く二試合目も一試合目と変わらず、凜が先に二本取っての快勝。昼休みに入った処で、律っちゃんが「ご飯どうする?」と、聞きに来た。この後のバイキングもある事だし、朝ご飯も遅かったからと言って断ると、バイキングに向けて気合いを入れてると勘違いした優が、「あたしもお昼は結構です。バイキングでは優に恥ずかしく無い戦いをしたいんで」と真顔で言って、律っちゃんを笑わせた。午後の部が始まって一時間が過ぎた処で、凜の今日最後の試合となった。三月に行われる準決勝への出場権が懸かったこの勝負。対する相手は一学年上で、凜が載っていたスポ―ツ誌にも取り上げられていた、強豪朝日学園の現主将。彼女は確か、この大会の優勝候補にも挙げられていたっけ。この日に狙いを絞ったのか、学校から来ている応援団の数も、凜の学校の生徒の軽く倍は居そうな感じ。「凜―っ!頑張って―っ!」あたし達の出す精一杯の大声も、凜の元へと届く前に、相手側から向かって来た大歓声に軽々と蹴散らされて消えた。客席からの歓声と、互いの部員からの激励の声が飛び交う中、試合場の中央に向かってゆっくりと進む凜。──蹲《しゃが》んで礼。本日最後の大一番が始まった…。午前中の二試合とは打って変わって、開始直後から激しく打ち合う二人。人間の持つ運動性能の素晴らしさに感動して暫し《しばし》の間、声を無くす優とあたし。目紛《めまぐ》るしく攻守が入れ替わって、二人の動きを目で追うだけでやっと。お互いが一歩も引かない中、「胴―っ!」と、長く高い声が響く。──白旗が三本揃って、凜が一本先取した。ちょっと焦ったけど、前の二試合と同じくこの試合も圧勝だと緊張を解す《ほぐす》あたし。──二本目が始まる。又も激しい打ち合いの中、一本目とは違って、少しずつだけど凜の方が後ろに下がって行く。打ち込まれて、時折左右にふらつく様子も見せる。一学年分のスタミナの差が出て来たのか、見た事の無い凜の窮地に息を詰める。「胴―っ!」──赤、赤、赤!まるで一本目を鏡に映した様に相手が取った。今日、一日を通して、初めて一本を取られた凜。信じられないと言った様子で、静まり返る凜の応援席。律っちゃんが今にも泣きそうな顔をして、凜を見守っている。反対に相手側の応援席が、俄然《がぜん》勢いを増して来る。元々の人数の差もあって、今となっては相手の名を呼ぶ声だけが会場の中を埋めていた。面を付けている所為《せい》で表情は見えないけど、肩の動きが相手より大きい凜は、遠目にも相等苦しそうに見える。…凜、頑張れ。「凜―っ!」隣で双葉が立ち上がった。凜の面が動いて…双葉を見てる。「まだ終わってない!」双葉の想いを受けて凜が頷く。面の内側で唇を引き結んだ凜の顔が見えた気がした。何時《いつ》からそうしていたのか、気が付くとあたしも優も立ち上がっていた。 ──試合再開。
又も激しい打ち合い。「面―っ!」、「胴―っ!」、掛け声の合間に何度か旗が上がるものの、"一本"の声は聞こえない。心なし上がる旗に赤が多い気がする。相手の鋭い攻めに、目に見えて凜が押され始めた。足を縺れ《もつれ》させた処に相手の躰が打つかって、凜が床の上を無様に転がる。それでも、少しでも休むのを拒む様に跳ね起きると、直ぐに相手に向かって行く凜。立ち上がって戦う事が自分の使命だと微塵も疑っていないその姿に、目の奥が熱を持つ。距離を詰めた二人が一つになって固まる。お互いに少ない動きの中で、力の限り押し合っているのが伝わって来る。二人の息遣いまでも聞こえて来そう。錯覚だと分かっていても、息を詰め足掻く《あがく》二人と呼吸が重なって、此方《こっち》まで息苦しくなってくる。固く握り締めた手の感覚が段々と鈍くなって来た頃、視線の先で蠢《うごめ》く一つの固まりが二つに分かれた。これって……その瞬間、試合会場の中から一切の音が消えた。『凜―っ!』三人の声が一つになって溶けて行く。「めえぇ―んっ!」……静寂が包み込むように時間の流れを止めた。───白、白、白、一本。『ウオォォォ―ッ!!』何時の間にか他の試合は終わっていて、この試合に注目していた会場全体から、一斉に沸き上がる大音量の歓声。すごい!すごいよ凜。あたし達三人も鈍くなった手の感覚が無くなってしまう程、力一杯拍手して、言葉にならない歓声を揚げる。ぼやけた双葉と優の顔を見て、あたしは泣いてる自分に気が付いた。
こうして迎えた二月十一日の建国記念日。旗日。
日本全国津々浦々まで、皆々様おめでとう御座います。只今午前八時四十分。
あたしと双葉、優の三人は、本日剣道の大会が行われる東京武道館の駐車場に居た。試合が始まるのは九時からとなっていて、多分だけど、会場の中はまだ開会式の途中の筈だ。
凜からの電話の後、双葉も誘ったらあっさりOK。丁度というか毎度遊びに来ていた優が、「あたしもバイキング行きた―い」と仰って《おっしゃって》此方《こちら》も即決定。今日の運びと相成りました、って訳。
「もうそろ中に入ろうよ」
駐車場の脇に併設された簡易喫煙所。煙の中、当てずっぽうに外から声を掛けると、双葉と優が連れ立って出て来る。二人を見てザワつき始める何人かの若い男達。そうだろゝ。うちの姉どもは可愛いだろ。男達のざわめきを耳に届かせてはいるのだろうに、1ミリの関心も示さない二人の後に追いて《ついて》、喫煙所を後にした。
会場に入ると、中には白線で囲まれた試合場が四つ四角に並べられていた。その四つの試合場を眼下に置くあたし達の居る二階席は、ほぼ満席の賑わいを見せている。今年から始まった大会という割には、かなりの観客数。それらが作り出す熱気で、席に着いて五分も経つ頃には、家から着てきたダウンはもう膝の上に在った。
凜の説明だと、この大会は今日と三月三十一日の二日間に渡って行われ、中学生、高校生の部両方共、今日中にはベスト4が出揃うとの事だった。そして三月末の開催日には準決勝と決勝戰が行われて、その日の午後には表彰式といった流れになるらしい。
八時五十分。試合場の脇に設けてある大会役員席と区切られた一角に、紅白の旗を手にしたおじさん達が数人集まって来る。その後、川の字に並べられたテ―ブルも、1人、又1人と背広姿のおじさん達が席を埋めて行く。───「ん!?」
その時、テ―ブルに並ぶおじさん達の中に、見覚えのある顔を見付けた気がして、あたしは思わず目を擦った《こすった》。「あれっ?」、「いやっ」、「なんで?」擦り過ぎて視界が段々ぼやけてくる。……けど見間違いじゃない。大会役員席と銘打たれたテ―ブルに鎮座されていたのは、幻覚でも無い限り確かにあの征十郎だった。「うおぉぉぉうっ!!」秒で"唐木征十郎"の五文字をスマホに打ち込ぬむ。4Gの速度で届いた画面には、"政治結社大日本皇神會会長""株式会社JSC会長""青少年非行防止協会会長""志誠館 館長"etc…と、怪しくも立派な肩書きが並ぶ中、在りました"全日本剣道連盟役員"。という事は、最早《もはや》疑いようも無く、今この時、あそこに座っていらっしゃるのは唐木征十郎御本人に違い無かった。
なんなの政治結社って…、やばい世界の匂いがぷんゝなんだけど。怖っ、やだゝ。だけど、今一度冷静になって考えてみれば、あの時、診療所で身の危険を察知したあたしの勘は正しかったのだ。征十郎の存在に怯えながらも、遠目に観察を続けるあたし。
それから、どれ位の時間が経ったろう。
「あれ凜じゃね?」
唐突な優の声で試合場に目を向けると、待機場所に凜が姿を見せていた。反射的に声が出る。
「凜―っ!頑張って―っ!」
あたしに気付いた凜が、笑顔で片手を上げる。「あっ」凜の指差す先、向かい側の二階席で手を振る律っちゃんと目が合って、手を振り返す。「声でかっ」とか言いつつ優も、あたしに負けない位の大声で叫んだ。「凜KOしちゃえ―!」だって、ウケる。面を付けようとしていた凜が、あたし達に向かって両手で丸を作る。「?」なんだ、なんで丸?凜の視線を辿って横に顔を振ると、優の隣で立ち上がった双葉が親指を下に向けて笑っていた。
"やっちまえ"
それほど時間を置かずに凜の出番は来た。白線の外で一度立ち止まり、小さく礼をする。白が凜。中央近くまで歩を進め向かい合うと、蹲んで《しゃがんで》又礼。
──試合開始。
互いの竹刀が「パパンッ」と子気味よく触れ合う。「ドンッ!」と、踏み込む音がここまで聞こえて来て、「メッ胴―っ!」え?えっ?一斉に旗が上がって白三本。鬼っ早、凜ヤバい!双葉の前で張り切ってるとはいえ、早すぎるでしょ。て言うか、ほぼ一撃じゃん。竹刀と竹刀が触れたと思ったら、いきなり「胴―っ!」とか叫んで、あっという間に相手の横を抜けて行った。素人のあたしが見ても、文句無しの一本。…だったと思う。──二本目。今度は端《はな》から敵も攻め込んで来る。中央で相手とくっつく凜。あれじゃ近過ぎて叩けないと心配するあたしを余所《よそ》に、二人が離れて……と、あっ「メェ―ッンッ!」離れ際、凜が相手の面を打った様にも見えたけど…てゆうのも、ちゃんと見てた筈なのに、それでも良く分かんない位、凜の竹刀の動きが速かった。…すげ―な人間って。又白が三本上がった。一礼して凜が退場する。…終わってみれば、二本で二分掛かったか掛からないかだった。って、──あれ?なんか痛い。何だ?痛みの源泉を探して視線を運ぶと、行き着いたのはあたしの太腿《ふともも》。乙女の柔肌に優のネイルが喰い込んでた。薬指のネイルが建国記念日を意識したのか、旭日旗《きょくじつき》だった所為《せい》で、赤い色を出血したのと勘違いして大いにビビるあたし。「ちょっと優、痛い」、あっ、と気付いてその手から力が抜ける。旭日旗って…。「フォ―ッ!!すっげ―、凜超ヤバい!」出し抜けに揚げた優の大声で、周りの視線があたし達に集中する。初めて見た剣道の試合に、優のボルテ―ジは最高潮。ボリュ―ムの調整はぶっ壊れてMAXから動かない。「今の見た?ねぇ見た?」と、頻り《しきり》に双葉に話し掛けているその声にも、周りを気にしている様子は全く無い。あたしも久し振りに見たけど、さすがは凜。危なげ無い。三年生が引退した二年生までの大会とはいえ、やっぱすげぇ。向かいの席で、優に負けないテンションで騒ぐ律っちゃんの姿が見える。名前入りの団扇《うちわ》ってコンサ―トか!優の相手してる双葉もなんだか嬉しそうだし、…来て良かった。──続く二試合目も一試合目と変わらず、凜が先に二本取っての快勝。昼休みに入った処で、律っちゃんが「ご飯どうする?」と、聞きに来た。この後のバイキングもある事だし、朝ご飯も遅かったからと言って断ると、バイキングに向けて気合いを入れてると勘違いした優が、「あたしもお昼は結構です。バイキングでは優に恥ずかしく無い戦いをしたいんで」と真顔で言って、律っちゃんを笑わせた。午後の部が始まって一時間が過ぎた処で、凜の今日最後の試合となった。三月に行われる準決勝への出場権が懸かったこの勝負。対する相手は一学年上で、凜が載っていたスポ―ツ誌にも取り上げられていた、強豪朝日学園の現主将。彼女は確か、この大会の優勝候補にも挙げられていたっけ。この日に狙いを絞ったのか、学校から来ている応援団の数も、凜の学校の生徒の軽く倍は居そうな感じ。「凜―っ!頑張って―っ!」あたし達の出す精一杯の大声も、凜の元へと届く前に、相手側から向かって来た大歓声に軽々と蹴散らされて消えた。客席からの歓声と、互いの部員からの激励の声が飛び交う中、試合場の中央に向かってゆっくりと進む凜。──蹲《しゃが》んで礼。本日最後の大一番が始まった…。午前中の二試合とは打って変わって、開始直後から激しく打ち合う二人。人間の持つ運動性能の素晴らしさに感動して暫し《しばし》の間、声を無くす優とあたし。目紛《めまぐ》るしく攻守が入れ替わって、二人の動きを目で追うだけでやっと。お互いが一歩も引かない中、「胴―っ!」と、長く高い声が響く。──白旗が三本揃って、凜が一本先取した。ちょっと焦ったけど、前の二試合と同じくこの試合も圧勝だと緊張を解す《ほぐす》あたし。──二本目が始まる。又も激しい打ち合いの中、一本目とは違って、少しずつだけど凜の方が後ろに下がって行く。打ち込まれて、時折左右にふらつく様子も見せる。一学年分のスタミナの差が出て来たのか、見た事の無い凜の窮地に息を詰める。「胴―っ!」──赤、赤、赤!まるで一本目を鏡に映した様に相手が取った。今日、一日を通して、初めて一本を取られた凜。信じられないと言った様子で、静まり返る凜の応援席。律っちゃんが今にも泣きそうな顔をして、凜を見守っている。反対に相手側の応援席が、俄然《がぜん》勢いを増して来る。元々の人数の差もあって、今となっては相手の名を呼ぶ声だけが会場の中を埋めていた。面を付けている所為《せい》で表情は見えないけど、肩の動きが相手より大きい凜は、遠目にも相等苦しそうに見える。…凜、頑張れ。「凜―っ!」隣で双葉が立ち上がった。凜の面が動いて…双葉を見てる。「まだ終わってない!」双葉の想いを受けて凜が頷く。面の内側で唇を引き結んだ凜の顔が見えた気がした。何時《いつ》からそうしていたのか、気が付くとあたしも優も立ち上がっていた。 ──試合再開。
又も激しい打ち合い。「面―っ!」、「胴―っ!」、掛け声の合間に何度か旗が上がるものの、"一本"の声は聞こえない。心なし上がる旗に赤が多い気がする。相手の鋭い攻めに、目に見えて凜が押され始めた。足を縺れ《もつれ》させた処に相手の躰が打つかって、凜が床の上を無様に転がる。それでも、少しでも休むのを拒む様に跳ね起きると、直ぐに相手に向かって行く凜。立ち上がって戦う事が自分の使命だと微塵も疑っていないその姿に、目の奥が熱を持つ。距離を詰めた二人が一つになって固まる。お互いに少ない動きの中で、力の限り押し合っているのが伝わって来る。二人の息遣いまでも聞こえて来そう。錯覚だと分かっていても、息を詰め足掻く《あがく》二人と呼吸が重なって、此方《こっち》まで息苦しくなってくる。固く握り締めた手の感覚が段々と鈍くなって来た頃、視線の先で蠢《うごめ》く一つの固まりが二つに分かれた。これって……その瞬間、試合会場の中から一切の音が消えた。『凜―っ!』三人の声が一つになって溶けて行く。「めえぇ―んっ!」……静寂が包み込むように時間の流れを止めた。───白、白、白、一本。『ウオォォォ―ッ!!』何時の間にか他の試合は終わっていて、この試合に注目していた会場全体から、一斉に沸き上がる大音量の歓声。すごい!すごいよ凜。あたし達三人も鈍くなった手の感覚が無くなってしまう程、力一杯拍手して、言葉にならない歓声を揚げる。ぼやけた双葉と優の顔を見て、あたしは泣いてる自分に気が付いた。