惡ガキノ蕾
     ~産廃処理場~
「──い、おい!起きろっおい!」
 …あん?あっ頭痛い。あれ?何処だ…ここ…。
「おい、いい加減起きろよ!」
 …つ―か煩《うるさ》っ……誰?ぼやけていた視界が、徐々にはっきりして来る。
 天井からぶら下がった裸電球が弱々しく照らしているこの場所は…、プレハブの中…かな?工事現場とかでよく見掛ける事務所みたいな、あの建物の中……みたいな感じ。其処彼処《そこかしこ》から入り込むすきま風の所為《せい》で、寒々とした室内の空気にブルッと躰が震える。窓際に並んだ名札の無いロッカ―達が、無表情にあたしを見下ろしていた。座り直そうとして、手と足が縛られている事に気が付く。しかも後ろ手。
──なんじゃこりゃ。頭の芯に残る倦怠感を首を振って追いやると、懸命にリセット前の記憶を呼び起こす。
 ……一樹と一緒にご飯食べてから、みゆの店に行って…それからタブレットを手にした優の顔、そんでトイレの前で塚本と喋って……そうだ、あたし裏口から出た塚本を追いかけて行って…。
「──おい…、おいって、起きてんだろ」
 横になってるあたしの頭の先で、聞き覚えのある声がする。寝返りを打つ要領で躰の向きを変えると、声のした方に顔を向けた。
「ああ…」とあたし。
 予想通り、目の前には鼻血か耳血か口血か分からないけど、とにかく派手な赤色で顔をペイントした塚本が居た。あたしと同じで、後ろ手に縛られた上、足は何重にもガムテ―プでぐるゝ巻きにされている。
「何やっ……てんの?」
「はあ?何やってんのじゃね―よ。元はと言えばお前のせいだから」
「どういう事?」
「お前らがあの動画見付けて来てあんな風に加工したり、俺達の顔覚えてたりするからだろ!」
 あ―。…言われてそれも思い出したわ。
 あたし、あの時店で頭に来て、打つかった二人の顔覚えてるなんてハッタリ噛ましちゃったんだ。双葉の計画だと、顔を覚えてるっていう嘘は、公園に来た塚本達が、往生際悪く白《しら》を切った時の最終手段にって言われてたんだけど、惚《とぼ》けてる塚本見てたらあたし、なんかこう…押さえらんなくなっちゃって…いや、でも、それにしたって、何だってこんなとこで、こんな事に…?
 ──「ガラララッ!」
 いきなりサッシの引き戸が乱暴に開けられた──
「横川さん!」
 隣で塚本が躰を起こす。
 入って来たのは、如何にもチンピラにしか見えない趣《おもむき》の三人だった。先頭に立つ、恐らく横川という背の高い男。その後ろに付き従う、金髪とグラサンの二人。真面目なサラリ―マンには見えないけど、征十郎のとこの辰雄とか和男みたいな迫力は感じられない。なんだか中途半端。あ、迫力って言っても、彼方《あっち》は元警察官らしいんだけどね。
「このばか野郎!知らねえ奴の前で人の名前軽々しく呼んでんじゃねえよ!」
 ヒステリックな怒声を揚げて、横川と呼ばれた男が塚本の躰に爪先を食い込ませる。「こらっ!おらっ!」──二発、三発。息を切らしながら、塚本からあたしに向き直った横川の口から這い出る、今度は一転して気持ちの悪い猫なで声。
「ふう―っ、お嬢ちゃんお久し振り」
 情緒不安定か!"お久し振り"?…何処で会った?……思い出せない。なら下手な事は言わない方がいいと踏んで、あたしは唇を噛んだ。
「お嬢ちゃんに顔覚えられてたとはね。失敗したゃったよ。隆一の馬鹿も何の冗談だか知らねえけど、勝手にあんな動画ばら蒔《ま》きやがって…。ったく、ちっとも笑えやしねえ」
 あぁそう。此奴《こいつ》があの時塚本と一緒に居たもう一人だったんだ。話からすると、隆一っていうのは、指輪野郎の事だ、多分。
「まあ、いいや。それでお嬢ちゃん、俺達の事、他に誰に喋ったんだ?…ああ、そういやあん時、じじいが一人居たな…。そこら辺のとこ、おじさんに詳しく教えてくれるかな?お嬢―ちゃん」
 見下ろしていた横川が、あたしの前に蹲み《しゃがみ》込む。アップで見た横川は肌の質感といい、目鼻立ちといい、蜥蜴《とかげ》を連想させるガッツリの爬虫類系だった。
「痛い目に遭いたい訳じゃねえだろ。それともMなのかな」
 あたしの顔を覗き込む、そのヘラヘラした笑い顔を見て決めた。あたし、此奴《こいつ》には何も喋んない。喋りたくない。
「うわ―、そんなおっかない顔して睨むなよ。おじさんの方がおっかなくて震えて来ちゃうよ」──「ギャハハハッ」他の二人が無理矢理笑い声を揚げる。
 これっぽっちも面白く無いんだけど。
「どうします?ちょっと痛めつけてやりますか?」
 金髪で体格のいい子分Aからのあまり有り難く無い提案。
「ほら、お嬢。この二人は俺と違って気が短いからさあ、早いとこ喋っちまった方がいいぞ」
 やだっ、怖い。正直ケンカとかした事無いから、殴られた事も無いし、痛いのは嫌い。
「おらっ!」──「ガタンッ」
 びっくりして動かしたあたしの足がロッカ―に打つかった。「ぎゃはははははっ!」と、三人が先《さっき》より一段大きな笑い声を揚げる。手を叩いてはしゃぐ子分達。
「はっ、可愛いね―、驚いちゃったんだ。可哀想に!」
 目の奥で熱を持った物が膨れ上がる気配が在る。やだ、零《こぼ》したくない。此奴《こいつ》らの前じゃ…。
「なに睨んでんだよ」
 肩を掴まれて、ロッカ―を背に座らされる。目の前には横川の顔。飲んでるのか吐く息に酒の匂いが混じっている。
「バンッ!」
 ──突然、点滅したように視界が瞬《またた》いて、左耳でキ―ンと耳鳴りがする。唇の端から血の味が拡がって、あたしは漸《ようや》く叩かれた事に気が付いた。
「ケッ、生意気なガキだ!お前が答えたって答えなくたって、関係ねえんだよ、ば―か」
 薄ら笑いを浮かべ、芝居掛かった大袈裟な手つきでポケットから"何か"を取り出す横川。「ほら、これな―んだ?」
 ──あたしのスマホ!
「はっ、その顔!いいねお前。この電話見られたら困りますってな!」
『ぶわっはっはっは~』
 今度は三人が三人共、ほんと楽しそうに笑ってる。悔しい。落ちた水滴で床に染みがひとつ出来た。
「うわっ泣いちゃったよ。ゴ、メ、ン、ネ、泣かないで―。俺まで悲しくなっちゃう」
 その台詞で笑い声が、又大きくなる。
 一頻り《ひとしきり》笑って気が済んだのか、嫌悪、恥辱、無力感、ありとあらゆるマイナスの感情と、耳障りな笑い声の余韻を残して、三人がプレハブ小屋を出て行った。
 悔しくて、涙が止まらなくなりそうで、それが又悔しくて、そこからの一分間は涙を堪える為だけに全力を使った。
「大丈夫か?」背中にこわゞといった感じで、塚本の声が当たる。
「は?」
「大丈夫かって聞いてんだよ」
 なんて答えようか迷ったけど、面倒臭くてシカトする事にした。
「…悪かったな」
 それでも答えないでいると、ぼそゝとまるで独り言みたいに、ロッカ―に寄り掛かった塚本が勝手に喋り出した。気分的には人の話に耳を傾ける様な状態じゃ無かったけど、話さない事は出来ても、後ろ手に縛られて耳を塞ぐ事も出来ないあたしは、塚本の声を耳に受けるしかなかった。
「店でお前から話があった後で俺、横川さんに電話したんだ。そしたら、今から行くから待ってろって言われて、……こんな事になるなんて思わなくて俺…俺…」
「ピピッ」と、時計の電子音が相槌を打つ。
「お前が気失ってる間にボコられて、そん時言われたんだ。お前と隆一はもう要らないって…」
「何時?」
「え?」
「あんた時計してんでしょ。あたしに見えるように躰動かして」
「…あ、…ああ」
 塚本が躰を捻る。血塗《ちまみ》れで傷だらけの持ち主には不似合いの、頑丈そうな黒いベルトの時計。AM3:28。
「三時半」小さく口にしてみるあたし。
 四、五時間は時間が跳んでいた。日付も変わって、二十四節気の春分。
「お前は連れて来られた時見てないけど、ここは山の中の産廃処理場だ。朝になったら、重機を動かしたって気にする奴なんて居やしないし…そしたらきっと、俺達埋められておしまいだよ…」
 話してる塚本の声は、最後の方で小さくなって頼り無く消えた。
 (埋められる?)
 …現実味が無さすぎて、実感が湧いて来ない。怖いって気持ちは、勿論たんまり有るのだけれど、又殴られるかも知れない怖さの方が近くに在って、埋められるっていう怖さが在る場所は余りに遠く、目を凝らさないと見えて来ない。
 これ以上考えても、自力じゃ今の状態から抜け出せそうも無いし、これからどうなるのかなんて事は、もう考えるのを止めた。
「なんで放火なんかしたの?」
「あん?あぁ、最初はネットで見付けたバイトの募集だよ。三時間で六万のな。隆一が見付けて来て…あ、隆一つ―のは、動画に出てた奴、薬指に指輪してる…。そんで、仲間も誘ってみんなで行ったら、それがオレオレ詐欺の受け子の募集で、金を取りに行ったり、銀行で金を下ろしたりする仕事だったつ―訳。」
 埋められると決めて掛かってる所為《せい》か、内情を話す塚本の口は滑らかだった。
 三時間で六万。思わずあたしだったらどうするかな、なんて一瞬考えちゃう。…でも、それと放火って…。
「その内横川さんが、俺と隆一にもっと割のいいバイトが有るからやらないかって、話を持って来てな…。俺らも最初は、さすがに放火なんてって思ったけど。下調べしてあるから家には絶対人が居なくて、燃えた家だって保険で元に戻るって言うし、ひとり一回二十万って言われたら、もう断れなくなっちゃって…」
「横川がリ―ダ―なんだ?」
「いや、横川さんの上にも誰か居るんじゃね―かな…。それについちゃ話した事も無いし、会った訳でも無いから確かな事は言えないけど…。たまにペコペコしながら電話してるの見た事あるし」
 あたしに時計を見せた態勢のまま、窓の方に顔を向けて話す塚本の表情は窺《うかが》う事が出来ない。けれど淡々と話すその口振りには先《さっき》迄の怯えた色は消えていて、自分自身の莫迦《ばか》さ加減を笑うような、そんな空っぽな明るさが感じられた。
「でも、なんであんな動画upしたの?」
「ハンッ、あれは隆一が一人で勝手にやったんだ。あいつは仲間内でも、盗みとか喧嘩になるとからっきし根性無くて、いつもみんなに馬鹿にされてたから、多分自慢したかったんだろうな。俺もやる時はやるんだぜ、みたいな。四件目の時、俺に動画を撮って来てくれって頼んで来たのも、みんなに見せるだけだと思ったから横川さんにも内緒で引き受けたのに…。なんか様子がおかしくて問い詰めたら案の定って感じで…。速攻削除させたから、昨日までは横川さんにもバレてなかったんだけど…。ま、これで隆一もただじゃ済まないかもな。…でも、まさかこんな近くに、あんなとこに気が付く奴が居るなんてなぁ…。ついてね―よ、ほんと」
 大体の話はあたしにも分かった。横川って奴が何の為にそんな事させてんのかは全然分かんないけど、塚本達がなんであんな事をしたのかは分かった。…結局はお金の為。…でも、だからって、やっていい事と悪い事は在る。──と思う。
「幾らお金の為だからって…」
「うざっ!キャバ嬢が偉そうに説教かよ!高校も出てね―し、頭も腕も無い俺達が、まとまった金稼ごうと思ったら、犯罪だろうがなんだろうが、やるしかね―だろ。俺の家だって、隆一のとこだって、母ちゃんしか居なくて貧乏暇なしで、小遣いなんて貰えね―しな。それでも遊んでれば金は掛かるし、出歩いてれば仲間の前じゃ恥ずかしいカッコは出来ねえだろ。だから…だからやったんだよ、文句あるか!」
 言葉が…、言葉が何も出て来なかった。塚本の言ってる事が真面《まとも》だとは思えないけど、頭も良くなくて何の技術も無い。…どっかで聞いたよな話。きむ爺と一樹と双葉に支えられて、やっと働く事が出来ているあたし。そんなあたしが塚本に向かって、生き方に関わる何かを偉そうに言う事なんて確かに出来ない。
「もしかして、今増えてる落書き…」
「あ―そうだよ。放火よりは金もだいぶ安いけどな」
 格好のいい事言って、放火なんて止めて貰うようにするなんて、あたし何様の積もりで居たんだろう。一樹や双葉と違って何も持ってないあたしと、隣で卑屈になって、悪い事は全部世の中と親の所為にしている塚本が、一枚の服の表と裏みたいに感じられて、それ以上話す言葉を、あたしはもう何も持っていなかった。
 苛立ちを打つけるように言い放った塚本も、そんな自分を恥じているのか押し黙っている。
 ちっぽけで薄っぺらな自分を思い知らされた、そんな二人を置き去りにして、時間は一人きりで進んで行った。
 腕時計の中で時間が七時を通り越して、窓に掛けられた安物のカーテンが朝の陽射しを抑えられなくなった頃、鍵が外される音がして、又あの三人が姿を見せた。
「いい子にしてましたか―。クックックッ…」
 何が面白いんだか、横川が自分の台詞に気味の悪い笑い声を漏らす。
 金髪と、グラサンを頭に載せた子分AとBが、あたしと塚本の脇に回って、足に巻かれたガムテ―プを剥がしに掛かった。
「動くなよ。動くと切れちゃうぞ―」
 カッターの刃が足の間を通って、ガムテ―プを割って行く。パンツが見えたと言っては下卑《げび》た笑い声を揚げる男達。後ろに回った子分…あたしの方に金髪、塚本の方はグラサンに、あたし達二人は乱暴に立たされた。
 連れ出された建物の外には、如何にも山の中と言った景観が拡がっていた。目の届く範囲には民家どころか、人工的な建物はひとつも見えない、久し振りに目にするダイナミックな自然界。姿の見えない鳩の鳴き声が山間《やまあい》に低く響いていて、こんな状況じゃなきゃほんわかした気分に浸っちゃう位、長閑《のどか》なシチュエ―ション。
「もう少ししたら残土を載せたダンプが来る。そしたらその残土と一緒に…。ぎゃはははははっ」笑い声に紛れて、金髪が後ろからあたしの胸を掴む。──「ぐぅう…」靴の爪先をヒ―ルで思い切り踏んでやった。途端に突き飛ばされて、自由の利かない縛られたあたしは、受け身も取れずだらしなく地面に倒れた。「このガキッ…」おでこに血管を浮き上がらせて近付いてきた金髪に、横川に殴られた左の頬をもう一度叩かれた。横川の右手よりも強い衝撃に、顔の左側が感覚を無くす。
「やめろよ!」
 グラサンの腕を振り解《ほど》こうとした塚本が、腹と顔を続け様に殴りつけられて膝を崩す。猶《なお》もあたしに近付く金髪の足を止めたのは、唸るような大型車の排気音だった。坂の下から響く重低音に空気が震える。ジャムった複数の排気音とエンジン音が登って来る車が一台ではない事を報せていた。その音が耳を蓋《おお》っても、百メ―トル程の距離にダンプが見えた時も、不思議と恐怖心らしき物があたしの躰に入り込んで来る気配は無かった。あたしはその場に倒れたまま、車の振動に揺れる道端に咲いた菜の花を、ぼんやりと瞳に映していただけだった。
 あたし達の居る場所まで二十メ―トル程に近付いたダンプがスピ―ドを緩めた時、大型車の凶暴な唸り声に隠れてそれ迄聞こえなかったバイクの排気音が耳に届いた。
 立ち上がってダンプの後方に目を遣ると、黒いダンプの後ろから、深紅のビッグスク―タ―に跨がった一樹が飛び出して来るのが見えた。その後ろには、みゆママの白いワゴンも。5メートルと離れていない場所にバイクを乗り捨てて、一樹があたし達に向かって一直線に走って来る。あたしの腕を掴んでいる金髪の手に力が入るのが伝わる。一樹の名前を呼ぼうとした瞬間、眼の前でその躰が跳ね上がった──
 あたしの頭よりも高いドロップキック。左腕を掴んでいた手が離れて、金髪が山の斜面を転がり落ちて行く。
「てめえっ!動くんじゃねえ!」
 後ろから首を抱え、塚本の顔に出刃包丁の切っ先を向けたグラサンが、一樹に向かって吠え立てる。「ねぇ」みゆママの車から降りて来た双葉が、何時の間にか塚本を抱えたグラサンの後ろに立っていた。左手にはあのお気に入りの木刀。「それ以上近寄るんじゃねえ!」グラサンが一樹から双葉に向き直って喚《わめ》く。
 二人に挟まれる格好になったグラサンにはもう、先《さっき》までの余裕は無い。あたしの方からは、一樹とグラサンの背中越しに双葉の顔が見えている。ちょっと眼を合わすのはお断りしたい久し振りのガチギレだ。感情の消えた顔には血の気が無く、真っ白な能面みたい。あたしと一樹は知っている。この状態の双葉には、声を掛ける事さえタブ―だという事を。その双葉が無造作に塚本とグラサンに近付いて行く。
「来るんじゃねえって言ってんだろ!」塚本を突き飛ばして包丁を振り翳《かざ》したグラサンが、双葉に向かって一歩踏み出した──
 出刃の先が双葉に触れるより速く、左手に握られた木刀が振られて、弾かれたグラサンの腕から出刃包丁が跳んだ。と同時に、首の付け根辺りを押さえて、前のめりに倒れていくグラサン。
「てめえらいい加減にしろこの野郎!」
 声のした方を振り返ると、一連の騒ぎの中みゆママの車に近付いて行った横川が、ドア越しに拳銃を向けて叫んでいた。みゆ達に向かい、「降りろ」と首を振って示す。この場面で偽物って事は無さそうに思える。同じ考えからか、双葉と一樹も動きを止めた。
「畜生、どいつもこいつもふざけやがって!おい!お前!こっち来い。カモンだ!カムヒア、オ―ケ―?」
 優と顔を見合わすみゆ。英語で話してるとこみると、100パ―セント御指名はみゆだろう。その顔にうっすらと笑顔を浮かべて溜め息を吐《つ》きながら、横川に向かってみゆが歩き出す。暴れ出しそうなみゆママの動きに逸早く気付いた優が、必死で抱き止めている。
「大人しくしてねえと、この女の穴の数増やしちまうぞ」
 横川の脅しに、握り締めた拳を解《ほど》くしかないみゆママ。何時もの毅然とした面持ちは失われて、そこに在るのは子供の身を案じる母親の顔だけだった。
 あたし達の胸の中に在る苛立ちと悔しさ、みゆを心配する気持ち。その何倍も大きな物に押し潰されそうなみゆママの悲痛な顔つきが今、あたしの心を締め付けて痛い。みゆママの隣でその背中を優しく摩《さす》る優にも勿論それは伝わっていて、泣き出しそうに顔を歪めている。
「ぎゃはははははは――っ」
 そんなあたし達の様子を見て揚げた横川の笑い声には、狂喜の色が濃く滲んでいた。辺りに不快な笑い声が降る中、避ける傘を持たず立ち尽くすあたし達。そうこうしている間に、泥だらけで斜面から生還して来た金髪が、双葉の手から木刀を取り上げた。
「おい!車持って来い!」
 みゆの後ろに回った横川がその金髪に命令する。どんな時でも飼い主の言葉は絶対なのか、一樹を睨み付けながら唾を吐き棄てると、金髪は建物の裏手へと走って行った。
「よ―し。お前ら全員そのまんまだ。動くんじゃねえぞ」
 横川はそう言ってみゆの腕を引っ張ると、まだ倒れているグラサンの背中を蹴りつけ、甲高い声で喚き散らす。
「いつまで寝てやがんだばか野郎!とっとと起きろ!」
 のろゝとした動きながら、グラサンが頭を振りながらゾンビみたいに起き上がって来る。止めを刺しときゃ良かったのにと悔やんでいる処へ、近付いて来る車のエンジン音。途中からその音が二つに分かれた気がして耳を澄ます。──聞き間違いじゃない。確かに金髪が向かったのとは違う方向から、この場所にもう一台向かって来る車が在る。
「…あ」
 乗っている人間の憤りを体現するかの様に、土煙りを上げて疾駆するその車のボンネットの先には、見覚えのある銀色の猫?が朝陽に輝いていた。横川の手前で急停止したその車に乗っていたのはなんと、征十郎様御一行だった。助手席から降りて来た辰雄が後部座席のドアを開くと、中から着物姿の征十郎が降り立った。横川も含めたあたし達だけでなく、山に棲む獣や鳥達までもが息を呑む迫力。その佇《たたず》まいに、いっときの静寂が辺りを支配して行く。
「な…なんだてめえら!」
 子分の手前、精一杯の虚勢を張って横川が吠える。車を乗り付け降りては来たものの、事の次第を掴めず、ただ周囲を見回す事でしかその場所に留《とど》まる意味を見付けられない金髪。居合わせた征十郎を除く全員が、事の成り行きを見守る中、低く、それでいて良く通る征十郎の声が、この活劇を次の場面へと動かし始めた。
「若いの、もう終わりだ。子供相手にこれ以上見苦しい真似はやめるんだな」
 辰雄と和男がゆっくりと、征十郎の左右から歩を進めて行く。
「くっ…来るんじゃねえ!ど、どこの誰だか知らねえけどな、お…俺の後ろには、か、関東俠心會の池…」「池上はこの件から手を引くそうだ」
 横川がとっておきの口上を言い終わらない内に、それ以上聞いているのも耐えられ無いと言った征十郎の言葉が、横川の口の動きを押さえる。
「この場所を教えてくれたのも池上本人だ。あいつの話だと、お前さんと関東俠心會には、今までもこれからも一切の関わりが無いそうだ」
「…そんなわけねえ…」
 みゆの腕を離した横川が左手で携帯を操る。
「もしもし、俺です、横川です。───そん…そんな…ちょっ、ちょっと待って下さ───……なんで…」
 携帯を耳から外した横川は、もう周りを見てはいなかった。右手に握った拳銃をだらしなく下に向けて垂らし、左手には携帯を持ったまま、何処を見てるのか分からない視線を宙にさまよわせている。
 みゆママの胸にみゆが飛び込んで行く。抱き合った二人に、更に優が抱き付いた。
「大丈夫?」振り返った双葉の視線があたしの足元から上がって来て、左の頬で止まる。目の前で双葉の黒目が、一段、色の深さを変えた。あたしの頬から外された視線は、怒りの対象を探して金髪で止まる。髪の毛程の躊躇い《ためらい》も見せずに近付いて行きその手から乱暴に木刀を奪うと、動きを止めずそのまま横に薙《な》いだ。金髪が倒れるのを待たずに振り向くと、今度は横川に向かって歩き出す。止まらない。近付いて来る双葉の足音に、夢から醒めたのか、横川の頭が動いた。
「なん…なんなんだお前。もういいから帰れ!」
 あたしから見える双葉の後ろ姿に、その声が届いている様子は無い。急ぐでもなく、横川に向かって歩いて行く双葉の歩調は変わらなかった。
「気に入らねえ…。なんだよその眼はよ…俺はてめえみたいなガキ見てるとむかむかしてくんだ、この野郎!」
 興奮した横川が、唾を飛ばしながら拳銃を持った腕を持ち上げる。
 ──一発の銃声が爆《は》ぜて、その音の余韻が消える前には全てが終わっていた。
 肉を打つ音が数回して、拳銃を落とした横川が両手で喉元を押さえる。その後ろで、双葉が木刀を振った──ように見えて、あたしの前で土下座みたいに膝を着いた横川が、地面に顔を埋めた。……朝陽を受けて立つ菜の花。その脇には、動かない横川の頭。
「帰ろう」
 銃声で重く濁っていた耳を、双葉の声が洗い流してくれる。其処にはもう、何時もの笑顔を咲かせた双葉が居た。
 …恥ずかしいけど、あたしその顔見て頭にぽんと触れられたら、もう腰が抜けちゃって…。みゆママに送って来て貰ったんだけど、車に乗って直ぐに眠っちゃったし、家に着く迄の事は殆ど何も覚えていないんだ。
 だから此《これ》は、後からみゆと優に聞いた話なんだけど──
 あたしが連れて行かれた場所は栃木の山の中。あの夜、突然店から居なくなったあたしを探す為、直ぐに携帯に連絡を取ったんだけど、その時にはもう電源が切られていたんだって。当然、店に居た塚本の仲間達にも心当たりを聞いたんだけど、塚本の携帯も電源オフで、此方《こっち》も手掛かり無し。あたしの携帯の電源が再度入れられたのは、夜中の三時を過ぎてからで、それ迄、五分に一度のペースで電話を掛け続けてくれた優の努力が報われたのは、なんと六○回過ぎの発信。直ぐに切られたらしいから、横川達の内の誰かだとは思うんだけど、スマホの中身を調べようとでもして電源を入れてたんだろうね。そこからは、双葉があたしの名前で携帯会社に電話を紛失した時の要領で連絡。GPSの最後の発信場所が栃木の山の中だと判って…。
 後は双葉が公園での話し合いの為、切り札として前以て《まえもって》話を通してあった征十郎に相談すると、"火事"、"放火"、"その後の落書き"、"栃木の山中"のキーワードから、関東なんとか會の池なんとかって人に連絡。其処から先は知っての通り…。
 それと此方《こっち》は、双葉に教えて貰ったおまけ。そもゝ今回の放火事件が始まる切っ掛けは、あたし達が住んでるこの町の千代田線の始発駅、北綾瀬駅から先をもう一駅伸ばす計画が根っこに在って、それを東京メトロが何年か先に発表するという情報を、関東なんとかのなんとかが手に入れたのが全ての原因。もう一駅作る為には、現在北綾瀬駅からその先の車庫に向かって走る線路を次の駅に向かって伸ばすか曲げるかなんとかするんだろうけど、その為には今回火事に…って言うか、放火に遭った家とその周りは、区画整理の対象になるんだって。
 そこで、その計画を一足お先に仕入れたなんちゃらは、今の内にその周辺の土地を少しでも多く手に入れて、一儲けしようと企んだ…って訳。次にやった事と言えば、彼処《あそこ》ら辺の人達が自分達の方から土地を手放すように仕向ける為、横川を遣う《つかう》事。自分の処の組員じゃなくてね。任された横川は、落書きの他にも色々嫌がらせの方法を考えていたみたいだし、実際にやってもいたらしいんだけど、放火は言わば最終的な脅しみたいなもんで、落書きとかされてる内に土地を手放さないと、燃やされちゃうぞって事なんだって。落書きって言ったって、後ろに放火が見えたら超―おっかないよね。それと、これは征十郎が言ってたらしいんだけど、あたし達が事を起こさなくても、横川達はその内早い段階で切り捨てられただろうって。…て言うのも、放火って驚く程重罪で、捕まれば最低でも五年は出て来れないし、場合によっちゃ死刑になる事もあるんだって。横川との繋がりは、この件に暴力団が加担していたと疑われる元だし、自分の若い衆を使わなかったのも、最初からやばくなったらその時点で…ってね。そうなれば当然塚本達だって、それ以上に酷い形で使い捨てにされたんだろうって事は、あたしにでも分かる。蜥蜴《とかげ》のしっぽ切りの、"ぽ"って事なんでしょ、結局。
 あたしはこれを、昨日迄の二日間を掛けて説明して貰ったんだけど、同じ話を双葉はあの日、栃木から戻って来る車の中で塚本にも話したらしいんだ。でも、その話を聞いている時も、話が終わってみゆの店で待つ仲間の処に向かう間も、塚本は一言も喋んなかったんだって…。
 ──その一件から二日が経った二十三日。
 頭の上には、黒の絵の具をケチった、まだ若い夜空。東京も明日、明後日には櫻も開花か?と騒がれる陽気の中、七時を待って看板に灯りを入れる。
「きむ爺―。今日、晩御飯ここで食べてくから、なんか作って」
 六時頃に顔を出した優が、そのまんま今日の口開けのお客さんになった。
「何かってえ、魚かい?肉がいいのかい?なんなら両方…」「何でもいいから美味しいの。千円以内でお願いしまっしゅ」
「あいよ。そんじゃあ、ちょいと待ってな」
 カラ・コロ・カラン──
「いらっしゃいませ」今日初めて暖簾を潜った《くぐった》お客さんは一度来た事のある、おじいさんとおばあさんの御夫婦だった。
「何処に座ったらいいですかねぇ」にこゝしながら訊ねられて、あたしも釣られて笑顔と一緒に、「お好きな処へどうぞ」と返す。
 座敷に三つ有るテ―ブルの一番手前に座った二人が、腰が落ち着くのを待って注文を取りに行こうとしていた処へ、「先にビ―ルを下さい」と、柔らかな声が届いた。
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