俺が優しいと思うなよ?


車が止まったのは、まさしく私の住むアパートの前だった。いい言い方をすれば昭和レトロな築四十年木造二階建てアパート。簡単に言えば、いつ取り壊しになってもおかしくないオンボロアパートだ。私の部屋はこの二階だ。
ヴェール橘の頃は会社の近くの社員寮対応で安く借りられた鉄筋の綺麗なワンルームマンションだった。そして会社を辞めると同時に、まるで夜逃げのようにここへ引っ越したのだ。不動産屋でこのアパートを見て即決して、ほとんど身一つで転がり込んだ日を思い出す。離職票は実家に送って貰うように会社に連絡した後、スマホは解約して新規で買い直した。ヴェール橘と、西脇からの連絡を遮断するためだった。

そして約一ヶ月、私は知り合いに会うことも、誰の目に留まることのない、周囲の記憶に残らない生活をした。
私はこのアパートで人生のリスタートを切ったのだ。
そのはずだったのに。


「お前、ここに住んでるのか?」
隣で呟くように言った成海さんは、どうやらアパートの古さに驚いているようだった。

──今もキラキラの都会の中で生活しているあなたに、この生活は絶対慣れないでしょうね。

私はシートベルトを外しながら言った。
「今の私には、ここの暮らしが丁度いいんです。ありがとうございました」

人からも都会からも、ここは私を束縛するものがないから。

成海さんから離れた解放感にほんの少しの喜びを感じながら、私は車から降りた。

今はまだ、これ以上私の中に踏み込んで欲しくないのだ。



< 59 / 180 >

この作品をシェア

pagetop