託宣が下りました。

 そうだな、とハーブティーの波紋を眺めながら思う。
 自然と笑みがこぼれた。〝あのとき〟のことを思うとき――それは彼にとって、最大の落ち込み期でありながら、同時に最大の『大切な思い出』を残した時期でもあったから。

『本当に覚えていないんだな、あなたは――』

 ようやく、顔を上げることができた。ヴァイスは空を見上げた。
 雲が悠々と空を渡る。平和そのものの空。〝あのとき〟と、同じ空――





(うむ。これはこれで面白い)

 そのときヴァイスは人生で一番愉快な経験をしていたと言っていい。
 カイに変装術をかけてくれと頼んだ。そうしたら女になった。とんでもない術の失敗だ。だが楽しいことこの上ない。

(この姿なら、姫にも確実に見つからんな)

 それが何よりの安心材料だった。今ヴァイスは、この国の第一王女エリシャヴェーラから逃げるのに必死の毎日だったのだ。

 凱旋式で見初められて以来、あの姫のしつこさと言ったら、腹をすかした野獣が餌を求めるよりももっと激しかった。毎日毎日使者がくる。時には本人が来る。そして無理難題を言う。結婚しろと、そればかりを。

(冗談じゃない。俺はまだ結婚する気はない)

 というより、ヴァイスには結婚願望がないのだ。男ならず女とも、適度に楽しく友人をやれていればそれが一番楽しかった。死ぬとき一人きりならそれはそれで自分らしい。

 結婚制度を否定する気は毛頭ないが、人には人の生き方がある。

 まあそもそもヴァイスは女に殴られることはあっても、友人関係以上に好かれたことはない。
 唯一の例外はマリアンヌだが、彼女に関しても、どうしても友人以上には見られない。

(まあ、子どもだけは欲しいがなあ)

 そんなことを考えながら、女の姿で町を闊歩(かっぽ)した。服装は男物だ。だが、誰が見ても男には見えなかっただろう。何しろ胸がでかい。でかすぎてだぼだぼの服を着るしか方法がなかった。胸がでかいと苦労するのだなとヴァイスは学んだ。胸は小さいほうがいいかもしれない。世の男どもは大きいほうが好きと聞くが、女本人が苦労するのなら理解してやるべきじゃないか? まあ胸がでかい女全員が苦労しているとも限らんが。

 結婚するなら……はて、どっちの女がいいのか。
 とりとめのないことを考えながら、彼はなじみきった王都をあちこち歩き回る。

 快晴の、いい日だった。雲さえもまぶしいほどに白く空を渡っていく。

 本当は。
 エリシャヴェーラ王女に追いかけられる困難にぶち当たっていることに、少し感謝していたのだ。

 ――()()()()を、考えずに済むから。

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