ふたつ名の令嬢と龍の託宣
 その視線を受けたハインリヒは一度ぎゅっと目をつぶって再び目を開けた。宙を睨み、さげすむような表情をつくってから、ゆっくりとアンネマリーへとその顔を向けていく。

「その名を呼ぶことも禁ずる。不愉快だ」

 氷のような表情で言い放つと、ハインリヒは踵を返した。振り返りもせずその場を去っていく。

 ぶな、と鳴いた後、アンネマリーの腕から猫の殿下が飛び降りて、ハインリヒを追うように走っていった。

 残されたアンネマリーは、茫然としてその場に立ちつくす。木漏れ日が、ただ静かに、殿下の庭に揺れていた。

 冷たくなってきた風が横をすり抜けるように吹いていく。どれくらいそうしていたのだろう。気づくと、夕日がアンネマリーのその身を照らしていた。

(帰らなくちゃ……)
 ――でも、どこに?

 アンネマリーはなぜ今ここに、自分がいるのかわからなかった。

 それでもふらりと歩き出す。
 ここにいてはいけない。また、王子殿下の不興をかってしまうから。

 そうだ。自分は王子との約束を守らなかったのだ。猫に触れてはいけないと、初めに約束をしていたのに――

(自業自得……なのだわ)

 アンネマリーはどこをどう歩いているのかもわからないまま、ただ重い足で歩き続けた。

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