政略結婚ですが、身ごもったら極上御曹司に蕩けるほど愛されました
 ——そして今。
「おいで」
 寝室の隅に突っ立ったまま動けない柚子に、もう一度、翔吾が言う。
 その優しく甘い誘いに、柚子は不思議な感覚に陥っていた。
 奈緒を産むまでの日々と生んでからの日々で、柚子は自分の中にふたつの顔が出来上がっていくのを感じていた。
 翔吾に恋焦がれ愛されて幸せを感じる女性としての顔と、奈緒という大切な存在を守っていかなくてならないと強くなってゆく母親としての顔。
 今は、そのふたつの顔が常に胸の中に存在していて、その間を行ったり来たりする日々だ。
『ただいま』と微笑むスーツ姿の翔吾に胸をときめかせたかと思うと、腕の中の奈緒が泣き出して、そのかわいい泣き声にとろけるような気持ちになる、そんな具合に。
 でも今。
 おいでと彼に声をかけられて、柚子は、自分の胸の中が翔吾でいっぱいになっていくのを感じていた。
 母親としての自分は隣の部屋ですやすやと寝息を立てている奈緒の隣で眠ってしまったようだった。
「柚子」
 甘く誘う、彼の声。
 柚子はこくりと喉を鳴らして、ゆっくりとその一歩を踏み出した。
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