極上御曹司は懐妊秘書を娶りたい
 この上なく甘美な一夜が明ければ、現実が待っている。
 溢れた想いをそのままに彼女を抱いた翌日、目を覚ました俺を出迎えたのは、整然とした無人の部屋と猛烈な後悔だった。彼女がいないのは当たり前だ。どうしてあんなことをした男と朝まで呑気に一緒にいられるだろう。本当に、男の風上にも置けない。
 そうして自分を殴りつけたい衝動に駆られながら、俺は気怠い身体を引きずってホテルを後にしたのだが、――――翌週に顔を合わせた麻田の態度に、もしかしてあれは俺の願望と欲望が見せた夢だったのではないかと思い始めた。
 月曜日に顔を合わせた瞬間は微かに動揺が見えたものの、それ以外の部分はいつもと一切変わらず、あの夜のことについて言及もしてこない。本当ならば強引に抱いたことを誠心誠意謝らなければならないが、もし夢ならば謝罪は薮蛇にしかならないだろう。
 いっそ間違いでもいいから、月曜日の朝一番に話をしてしまえばよかった。今更話そうにもタイミングが見つからず、どうしたものかと考えていた矢先、――――彼女が持ってきたのは退職の話だった。
「近いうちに、辞めさせていただきたいんです」
「……理由は」
 心臓に氷の塊を押し込まれたような感覚を味わいながらも、そう言葉を返せたのは、彼女の瞳が迷うように揺れていたからだ。付け入る隙がある、――――まだ心が決まっているわけではない。そう見て取って回復した余裕が、麻田のある仕草の意味を理解すると同時に、瞬く間に掻き消えた。
「……もしかして、子どもか」
「え……な、なんで、」
「その、手。無意識に腹部に触れたのは、そこに理由があるからだろう?」
 白くほっそりとした手が腹部を守るように、抱え込むように組まれている。見た限りでは普段と何も変わらないのに、『何かがある』と思ったのだ。ほとんど勘頼りの鎌かけだったが、麻田はその問いかけに対し、露骨に表情を変えてみせて。
 ああ、その顔は見たくなかった。
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