sugar spot
◻︎
「梨木さんおはよう。」
「おはようございます!
昨日はありがとうございました。」
「いえいえ。」
一階のエントランスをエレベーターに向かって歩いていると、後ろから枡川さんに声をかけられる。
体調は大丈夫?と優しく気遣ってくれる彼女に昨日とは打って変わって万全の笑顔を向けることができた。
会が終わって即刻帰宅した私は、そのままリビングの床で爆睡していて。
でも睡眠不足にならなかったことが功を奏したのか、お酒が次の日には自分の中から抜けていて安心した。
「…何持ってるの?」
「これ、南雲さんが貸してくださった図面のこと学べる本なんです。」
「偉いね!?朝から勉強してたの!!」
「……あ、いや、」
私がこれを熟読しつつ読破するとなると、きっと何日もかかってしまう。
「良かったら有里君とも共有してって言ってたよ。」
受け取った時、先輩にそう言われた。
別に、"私の意思"じゃ無い。
南雲さんのご厚意は、
ちゃんと共有しなきゃって思ってるだけだ。
問いかけに歯切れが悪くなった私を、隣で枡川さんがきょとんと見ている。
「……敵に塩を送られっぱなしは良くないから相殺しておこうかなって、思って。」
「え、どういうこと?」
あの男が気まぐれに差し出したのは
塩っていうか、水だったけど。
本を握りしめて曖昧に笑うと、枡川さんは「よく分かんないけど、梨木さんは朝から戦ってるんだね」と微笑んで、それ以上は何も聞かなかった。
「……あ、有里君。おはよう。」
「、」
そのままエレベーターホールに辿り着いたところで、長身の男がいつものステンカラーコートを左手に持って立っていた。
「おはようございます。
昨日はありがとうございました。」
ふ、と切長の瞳をほぐしてそうお礼を告げた声は、決して愛想が良くはないけど鋭さも無かった。
チラリ、こちらを一瞥して視線が交わるとすぐに能面になった男との数秒の沈黙。
…こんなとこで早々に鉢合うとは、思わなかった。
始業前に渡そうとは思ってたけど、なんて言おうかは考えてなかった。
あのさ、とそれでもなんとか重すぎる口を割ろうとすると、プルルルルと電子音が響いた。
「わ!得意先だ…朝から嫌な予感しかせん…
私、電話出てから上にあがるね。」
スマホを見てそう告げた枡川さんが慌てたように来た道を戻っていって、必然的に2人きりになる。