sugar spot
冷や汗が流れていく感触が、あまりに鮮明だった。
まずい。どうして。
さっきまで私、このメッセージを送るための勇気が無いだのなんだのと、散々悩んでたくせに。
この男の急な襲来で全て抜け落ちてしまっていた。
「……」
「……」
こんな辛い沈黙、かつて今まであっただろうか。
どうしよう。
もういっそ、無かったことにして曲の解説をしたい衝動に襲われている。
「……ラクガキ。」
「…え。」
依然として、柱に身体の重心を預けたままの男は、伏目がちに、急にそう告げてくる。
高い鼻が際立つ横顔からは、男にしては長い睫毛によって、丁度影になっている涙袋のほくろがよく観察できた。
それに気づいたのか、ちらりと黒目だけこちらに向けてきて、お互いの視線が止まる。
「昔あのバンドが行ってた北千住のライブハウスの壁に、メンバーのラクガキがある。」
「……え!?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。
また馬鹿にされそうだけど構ってられない。
だって、そんなの初めて聞いた。
ネットでも、彼らの聖地に関する情報は勿論あって、行けなくても検索して沢山見てきたつもりだ。
北千住のライブハウスも有名で、その存在は知っている。
「…それ、何の情報?」
「俺。」
「…は?」
「俺が見て、これメンバーっぽいなって思った。」
「……確証、うっす。」
この男、なんなんだ。
あまりに平然と告げてくるから危うく信じそうになったけど、「それっぽいなあ」と思っただけで、要は何の証拠も無いということだ。
私が率直な感想をつい漏らしたら、とても不服そうに眉をちょっと子供みたいに寄せて、缶コーヒーをぐい、と仰いだ。
「じゃあ良い。」
「……え、」
「信じないなら良い。」
いつもの感情の読めない声で吐き捨てて、空になった缶も器用に近くのゴミ箱に投げ捨てる。
「ま、待ってよ…!」
「……」
そのまま研修の行われている部屋へと戻っていこうとする背中に、慌てて声をかけた。
____それ、土曜、連れて行ってくれるの?
そう問いかけようと、口を開いた。
「梨木!!!!
あんたまたExcelの拡張子間違えて提出してきたでしょ!!出し直して!」
ゆらりと炎を纏った鬼の吉澤さんが突然会議室の入り口から顔を出して発した怒号で、さっき蓄えた勇気も、言葉も全てが綺麗に吹っ飛んだ。
「……す、すいません…すぐ出します…」
力無く頷いて謝罪したら、吉澤さんはまた溜息と共に
会議室へと戻っていく。
もう駄目だ。気持ちを完全に削がれてしまった。
溜息を漏らしてソファから立ち上がると、その一部始終を見ていた男が目の前に突っ立っている。
「…今日、飲み会あるだろ。」
「え?ああ、うん。」
宿泊研修も最終日の今日は、皆んなでお疲れ会を夜に開く予定になっている。
「その後。」
「…え?」
「その後、ここに集合な。土曜のこと決める。」
「え。」
「あと拡張子ミスは、馬鹿。」
サラリと最後は、腹の立つ言葉でご丁寧に締めくくった男は一方的にそう伝えて、会議室へと歩き出した。
「……、」
"土曜のこと決める"
それを反芻したら胸が高鳴るのは、普通に聖地巡礼が出来ることの嬉しさだけだと分かってるけど。
結局行ってくれるなら、
もっと愛想よく誘えないのか。
と、自分のことは棚上げにして不平を漏らしつつ
私もその背中を追った。