Diary ~あなたに会いたい~
 翌日も。またその翌日も。
 彼女はあの店で俺を待っていた。

 出来る限り早く仕事を切り上げ、
彼女の元へ向かう足取りは軽い。
 冷えたドアノブを回し重い扉を開ければ、
いつもと同じカクテルを手に彼女が俺を振り
返る。向けられる眼差しは確かに、恋人の
それで、店での待ち合わせが俺たちの暗黙
のルールとなっていた。

 

 限られた時間を惜しむように朝まで肌を
重ねる日もあれば、マスターと3人、夜更け
まで語り合う時もある。
 画を描きたいと彼女がねだる日は、いつかの
夜景を観に車を走らせることもあった。


 満たされた日々が、穏やかに過ぎてゆく。
 彼女のすべてを得ることが出来なくても、
朝までの時間を共有できるだけで、俺は満足
だった。
 
 求めすぎれば互いが辛くなることを、俺は
知っている。だから、“誰かの代わり”のままで
も、いまが幸せならそれでよかった。


 けれどひとつだけ、気がかりなことがあった。
 尚美が無断欠勤をしていることだ。
 彼女との関係が上手くいき始めた頃から、
尚美は会社をずっと休んでいた。
 嫌な予感がした。
 尚美は人一倍責任感が強い。
 彼女に限って、こんな風に仕事を投げ出すこと
は、ありえなかった。
 それでも、フロアー奥の中央に腰掛ける部長
の様子はいつもと変わらない。
 まさか「何かあったのか?」と、部長を問い
ただすわけにもいかず……
 俺は自分で確かめるため、尚美のマンション
へ向かった。



 久しぶりに訪れたマンションのロビーで
4ケタの暗証番号を押す。自動ドアをくぐり
抜け、明るい通路を早足で進むと、エレベー
ターに乗って8階のボタンを押した。

 冷えた夜風を背に受けて、彼女の部屋の前に
立つ。シンと静まり返ったドアの向こうからは、
人の気配を感じない。

 留守なのだろうか?
 俺はインターホンを押して返事を待った。
 けれど、やはり返事はない。
 まさかと思って、玄関のドアノブに目をやった。



-----その時だった。



シルバーのドアノブに赤黒い、血液らしき付着物
を見つけ、俺は目を見開いた。
背筋に冷たいものが走って、無意識に口元を手で
覆う。“やはり何かあったのだ”と、ドアノブに手
を伸ばした瞬間、ガチャリと戸が開いた。



「!!!」



どきりと鼓動が跳ねて、息を呑む。
ゆらりとドアの前に立つ人物を、凝視した。



-----そこには。



 酷くやつれた顔をした、尚美が立っていた。

 「……いたのか。ずっと来ないから、どうし
たのかと。何か、あったのか?」

 息を整えながら彼女の顔を見れば、やつれた
左頬に3本の傷がある。

 引っ掻きキズ、だろうか?
 細い傷痕は赤いかさぶたを残して少し腫れて
いた。

 「ごめんなさい、恭介。来てくれたのね。
入って。散らかってるけど」

 いつもより張りのない声でそう言って、尚美
が奥へ戻っていく。俺はただならぬ気配を感じ
ながら、ドアを閉め、彼女の部屋へ上がった。
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