初老アイドルが一般人女子との恋を成就させるまで
午後の撮影とインタビューも順調に終わり、予定通りに彼らは今日の仕事を終えることができた。
マネージャーに車で送ってもらい、航太は自宅マンションに帰宅した。
帰宅した自宅は、朝出かけた時と何一つ変わっていなかった。
一人暮らしをしているので当然と言えば当然なのだが、もうこれが航太にとっての当たり前であった。
航太は着替えてからキッチンに向かい、先日暁からもらった手作りの牡蠣のオイル漬と焼酎を出して、それを肴にちびちびとロックで飲み始めた。



と、その時、スマホがメールを受信した音を奏でた。
航太はぱっとグラスを置いて、スマホを手に取りロックを解除して受信ボックスをタップする。
メールの送り主の所には、『茜』と表示されている。
まさに昼間、話題になった彼女からだった。
反射的にメールを開くと、そこには短いメッセージが並んでいた。



『お久しぶりです。
お忙しいところすみません。
もしお時間よろしければ、電話してもよろしいでしょうか?』



航太は思わず、スマホの画面に目を見張る。
いったい彼女は、何を自分に直接伝えたいのだろう。
そう考えても、もちろん答えなんて航太の中で出てくるわけがない。
だが、茜と直接話ができるチャンスが、今、目の前にある。
また、先日の電話の件も、改めて話をしておきたい。
航太に、断る理由など、何一つ存在しなかった。



『お久しぶりです。
大丈夫ですよ。』



端的にそう彼女に返信すると、航太は置いていたグラスを手に取り、焼酎を一口飲んだ。
そして、焼酎を飲み込んだ次の瞬間、持っているスマホが着信を告げる。
表示されている電話の主は、茜だ。
航太は軽く息を一つ吐いて、通話ボタンをタップした。



「もしもし?」
「航太さん…ですか?」
「はい、そうです」



航太個人の携帯にかけているのに、電話の相手が航太かどうか確認する茜に、航太は自然と笑みがこぼれる。



「お疲れ様です。すみません、また急な申し出をしてしまって…」
「いえ、今日はもう仕事終わってるんで大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」



次の瞬間、二人の会話はぱたりと途切れ、スマホ越しに沈黙がただただ流れる。
もちろん、このままでいる訳にもいかない。
まだ少し緊張した心持ちを残しつつ、航太は口を開く。



「あのっ」
「あのっ」



航太の左耳は、確かに自分の声を受信していた。
だけど、スマホをつけている右耳は、スマホの向こうにいる茜の声を受信していた。



「あ、すみません」
「いや、こちらこそ。あ、茜さん、先どうぞ」
「いえっ、航太さんお先にどうぞ」



航太は、再び茜に先に話すことを促そうと思ったが、おそらく彼女はすぐには受け入れないだろう。
それではせっかくの電話の時間がもったいない。



「じゃあ、俺から」
「はい」



茜の返答を待ってから、航太は一つ、息を吸う。



「この間は、すいませんでした」
「え?」
「いや、せっかく相談してもらったのに、突き放すようなこと言ってしまって…」
「あー…」
「メンバーにも言われました、その返しはないって」
「あの!」
「はい?」
「私は…、この間のアドバイス、嬉しかったです」
「え…?」
「あの時、なんていうか、目から鱗だったんです。あの時私、自分で決断することから逃げてしまっていて…。だから、航太さんがああ言ってくれて、ああそっか、他人に結論を任せちゃいけないなって、気づけたんです」



思ってもみなかった茜の言葉に、航太は思わず相槌も忘れて彼女の話に聞き入っていた。



「あの後、もう一度最初から台本を読み返して、稽古の様子思い出して…、それで、ちゃんと決めることができました。ありがとうございます」
「そう…ですか」
「あと…」
「え?」
「航太さん、言ってくれましたよね。“芝居をについて真剣に考えるのに、プロもアマも関係ないよ。”って」
「ああ」
「その言葉…、本当にうれしかったんです。高校演劇って、下に見られることが多くて…。だけど、航太さんは同じだって言ってくれて、すごくすごくうれしかったです」



思ってもみなかった茜の言葉に、航太は返事も忘れて、ただ彼女の言葉を心の中で反芻する。
胸の奥が、じわじわと温度を上げているし、心なしか頬も緩んでいる気もする。



「あ、それで、今日電話させていただいたのは、大会の結果をご報告しようと思ってかけさせていただいたんですけど…」



茜の言葉にハッと我に返った航太は、返事をするために急いで口を開く。



「あ、どうでしたか?」
「おかげさまで、無事に地区大会を突破して、来週県大会です」
「え、ほんとですか!?おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「あの…、ちなみに、ラストの演出はどちらにしたんですか?」
「現代の高校生を強く出す演出にしました。あ、ちゃんと自分で判断しましたよ?」



少し焦った口調で自ら判断したことを伝える茜に、今度こそ確実に頬が緩むのを、航太は感じていた。



「疑ってないから大丈夫ですよ」
「なんか…すみません…」



その後、二人は互いの近況など、他愛もないことを話してから、通話を終わらせた。
航太はスマホをテーブルに置き、氷が解けて少し薄くなってしまった焼酎を一口飲む。


相変わらず、胸の奥の温度は上昇を続けている。
それはもちろん、今しがた飲んだ焼酎の所為ではない。
結果的に、ではあったが、彼女の役に立てた。
誰かの役に立つということは、ありがたいことに今までもたくさん経験してきた。
それでも、茜の役に立てたということが、ひどく嬉しかった。
茜が一人の表現者として進む道を示すことができたのなら、それは航太にとっても喜ばしいことだ。
そして、なんのつかえもなく、想う。


彼女が、好きなのだと。


一目惚れなんて柄じゃないし、そんな年でもないけれど、あの夏の日から、自分は茜に惹かれ恋に落ちてしまったのだと、やはり認めるしかないようだった。
だけど、不思議とそれはすんなりと航太の中で受け入れられた。
頬を緩めながら、また少し薄くなった焼酎を、航太は口にした。
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