初老アイドルが一般人女子との恋を成就させるまで
一方の茜は、県大会を無事突破した後、1月半ばに開催される関東大会に向けて稽古を重ねた。
それに加えて、12月は2学期の終わりであるため、学校としてはテストや成績、そして三者面談とイベントが盛りだくさんだった。
茜はそれらの、正直に言えば嬉しくないイベントをくぐり抜け、年末ぎりぎりまで稽古を行った。
年明けも三が日を過ぎると、すぐに稽古を再開させ、そうして1月半ばの関東大会本番を迎え、結果はどうあれ無事に終えることができたのであった。




そんな風に、ぽっかりと余白ができた1月の終わりの休日を、茜は自宅アパートで録りためていた映画や舞台などの映像作品を消化していた。
余計なことは何も考えず、ただ目の前の作品に集中しているこの時間が、茜は好きだった。
今見ているのは、今年全国大会で優秀賞を獲得し、国立劇場で上演されたシェークスピア作品をモチーフにした一人芝居だった。
作りこまれ、なおかつ途中で大きく動くセットや、ビデオカメラをうまく使った演出に、茜は感心しきりだった。




ふと、航太だったらどんな感想を抱くのだろうと、茜は思った。
プロの役者に高校生の舞台を見てもらうなんて、通常では考えないことだけど、芝居を作り上げるのにプロもアマも関係ないと言ってくれた航太だったら、真剣に見てくれるんじゃないかと思ったのだ。



だけど、茜はすぐに首を横に振る。
そんなことは、ありえない。
メールと電話をしてはいるものの、自分と航太は赤の他人、あえて言うなら知人、それ以上でもそれ以下でもない。



それでも、航太と見た舞台について話しをしてみたいという思いは消えず、茜の中でその想いは膨らみ続ける。




「…会いたいな」




ぽろっと、本当に何気なく、茜の口からこぼれ落ちた言葉に、茜自身がひどく驚き、動揺する。
自分は今、何を言ったのか、何を、考えているのか、と。
彼は、航太は芸能人だ。あのロケがなければ交わることのない、雲の上の人。
こんなことを思ってはいけない。
茜はそう自分に言い聞かせ、形になり始めそうな気持ちをぎゅっと押し潰した。




その時だった。
茜のスマホが着信音を奏でだす。
その音に我に返った茜は、急いでスマホを手に取った。
表示されているディスプレイ上の名前を見て、茜は一瞬ドキリと胸が大きく鼓動した。
それは先ほどまで、茜が思い描いていた人の名前だ。


これまでも、航太とは電話でやり取りをしてきたが、いつも事前にお互い電話ができる状況化を確認するメールのやり取りを交わしてきた。
だが、今回はそれがない。
なんとなく、出たい気持ちと出たくない気持ちがせめぎあうが、待たせるのは申し訳ないと、茜は息を一つ吐いて通話ボタンを押して、スマホを耳につけた。




「もしもし」
「もしもし、茜さん?」
「はい、そうです」
「すみません、急に電話して…」
「いえ、今日は休みなんで大丈夫です。航太さんこそ、大丈夫ですか?」
「ええ、今日はレギュラー番組の収録だけだったんで、もう今は家にいます」
「そうだったんですね、お疲れ様です」
「そうだ、関東大会お疲れ様でした」
「ありがとうございます。」




別段、普段と変わらない様子で話す茜だが、その心臓は痛いくらいに強く鼓動し、妙な緊張感に襲われていた。
と同時に、航太から電話が来たということを喜ぶ自分もまた、彼女の中にいた。




「あー…、それでなんですけど…」
「はい?」




突然歯切れの悪い調子になった航太に、茜は努めていつも通りに返答するも、心の内は不安でいっぱいになる。




「その…、大会が終わったってことは、少しは休みとか、取れるんですか?」
「え?あー、そう…ですね」
「…あの」
「はい」
「もし…、都合が合えば、ですけど、……もう一度、お会いできませんか?」
「……え?」




航太の言葉に、茜は一瞬思考、いや、体の全機能が停止したかの如く、動きは止まり、頭は真っ白になった。
当然、「え?」に続く言葉など、茜から出てくるはずもなく、受話器越しに沈黙がしばし流れていく。


その沈黙は数秒だったのか、十数秒だったのか、はたまた数十秒以上だったのか。
時計を見ていないから茜にはそれは勿論分からないが、とてつもなく長い沈黙に感じられる。




「…茜さん、大丈夫?」




受話器の向こう側から聞こえてきた航太の呼びかけに、茜はようやく再起動し、そこから急速に思考が回転し始める。




「あ、はい!大丈夫、です!」
「すいません、なんか、急に…」
「えっ…と、なんで…ですか?」




再び、受話器越しに沈黙が流れる。
先ほどと違うのは、その沈黙を作ったのは茜ではなく航太だということだけだった。
その沈黙が、茜にはとても痛く感じられた。
同時に、なんでなどと聞かなければよかったと、後悔が彼女の中で大きくなっていく。




「…なんか、会って話したいなって思った…からじゃ、駄目ですか…?」




航太の返答に、茜の胸は大きく鼓動する。
気の所為じゃなく、体が熱い。
だけど、すぐに茜は我に返る。




「…職場の予定見てみないと、なんとも…」
「ですよね。じゃあ、大丈夫そうな日が分かったら、教えてもらってもいいですか?」
「はい」
「ありがとうございます」




それから、二人は互いの近況を話して、通話を終えた。
茜は、震える手でスマホをテーブルの上に置き、今の今まで通話していたスマホをじっと見つめた。
そして、今航太から言われた言葉を思い出す。


「会って話をしたい」。


彼は確かに、そう言った。
自分も会いたいと思っていた相手が、自分に会いたいと思ってくれて、あまつさえ、それを伝えてくれた。
互いに同じ気持ちを抱くことが、どんなに奇跡的なことなのか、それなりの年月生きてきた茜には痛いくらい分かる。




本当なら、即座にOKを出したかったし、職場用バッグの中に入っているスケジュール手帳を見れば、予定など一発で分かった。
だけど、それをしなかった。
いや、できなかった。
茜は自分に言い聞かせる。勘違いするな、と。
もう、起こったことに素直に喜び、受け入れる時期はとうに過ぎた、と。
それでも、心の中では航太に会いたいという想いが、どんどん大きくなっていく。
どうしたらいいか判断がつかなくて、茜は膝に顔をうずめた。
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