初老アイドルが一般人女子との恋を成就させるまで
香代の遠慮のない質問に、茜は一瞬ぴたりと動きを止める。
だけどすぐに動きを再開して、缶チューハイを一口飲んだ。




「明らかになんかあったでしょ。仕事に支障出まくってるし」
「…ですね」
「まあ、あんたも私もいい大人だし、あんまり何度もお節介焼くのはどうかと思ったけど、この前よりひどいもん」
「ご心配おかけしております…」
「もしかして、この間の人のこと?」




“この間の人”という言葉に、茜はまた鉛を飲み込んだような感覚を覚えた。
香代の言う“この間の人”とは、デートに行くかどうかを相談した相手、つまり航太だ。
もちろん、個人名を香代には伝えていないから、香代は“この間の人”がまさかスパノヴァの航太だとはいまだ知る由もない。


前回もそうだが、この状況で嘘をついてこの話題を回避することは難しい。
やはり茜が取るべき選択肢は、具体名を伏せながら真実を言うことだけだった。




「その…、実は、その人からお付き合いしませんかと言われまして…」
「うっそ」
「ほんと。で、ちょっと回答に悩んでまして…」
「何で。あ、デートはいいけど付き合うには嫌な相手なの?」
「嫌っていうか、こないだも言ったじゃん?色んな意味で気を遣う相手だって」
「え、もしかして既婚?」
「それはない。既婚者好きにならないし、第一既婚者と2人で出かけないから」
「それじゃあ…、あ、年の差結構あるとか?」
「年の差はあるけど……」
「ん?どした?」




その時、茜は初めて思い至ったのだ。
航太とそれなりに年が離れているということに。
茜の記憶が正しければ、航太は現在45歳。
確か、去年そのネタで、SNS上でバズっていた記憶があるから、間違っていないはずだ。
自身は現在29歳なので、航太とは14つ離れていることになる。




「今言われて気づいたけど、年の差あるけど気にならなかったわ」
「じゃあ、何が問題なのよ」




香代の疑問に、茜は答えに窮した。
これ以上は、ある程度特定されてしまう情報を織り込んでいかないと、話が進まないからだ。
もちろん、香代がそのことを言いふらすような人物でないことは、茜はよく分かっている。
それでも、可能性がある限りは、できるだけ伏せておくに越したことはない。




「……その人さ、遠い世界の人なの」
「遠い世界?」
「うん。本当なら、私たちの世界とは全く関わりのない人。だから、自分が一緒にいていいかどうか、判断つかなくてさ…」




やはり芯を捉えていない茜の説明に、香代はチューハイを飲みながら、茜の言葉を咀嚼する。
何となく、沈黙がいたたまれなくなった茜は、缶チューハイを飲み干し、2本目のハイボールを手に取って開け、飲み始めた。




「…その人と一緒にいたら、なんかまずいことあるの?」
「うーん…、一緒にいること自体はまずくないと思うんだけど、あんまりそれが大っぴらになると、色々まずいかも。下手したら、相手の仕事に迷惑かけちゃうかもだし」
「そっか」
「…きっとね、十代の頃なら何も考えないで頷いてたと思う。でも、さすがにこの年になるとそういう訳にいかないじゃん?」




なんとなく、香代の方が見れなくて、茜はハイボールの缶を見つめながら言葉を紡いでいく。
と、視界の端に香代の手が映り、同じく視界の端に映っていたチータラを一つ取っていくのが見えた。




「茜は、どうしたいの?」
「え?」




その質問に、茜は思わず顔を上げて香代を見つめた。香代はまっすぐに茜を見ている。




「とりあえず、何となく事情は理解したけど、茜自身は相手のことどう思ってるの?」




香代からの問いかけに、茜は自然に航太のことを想った。
アイドルで、役者としても才能があって、本来なら自分にとって遠い遠い世界の人。
でも、話してるとどんな他愛のないことでも楽しくて、一緒にいたらたとえ沈黙でも心地良くて、他の人が知らない自分を見つけてくれた。
そう、自分が航太をどう思っているかなんて、とうに答えは出ていた。




「茜はさ、昔から先のこととか色んなこと考えすぎて、相手とか周りのことを優先しちゃうからさ、こういう時くらい自分のしたいようにしていいんじゃない?」




そう言うと、香代は手にしていたチータラを食べ、1本目のチューハイを飲み干した。




「……いいんですかね、大人なのに自分の気持ち優先して」
「いいでしょ。てか、私から言わせると、子供の時から相手とか周り優先気味だからね、あんた」
「はは……」
「こういうのって、縁とかタイミングっていうじゃん?今がそうなんじゃない?」




香代の言葉は、茜の中に静かに、だけど深く響いていく。
そんな茜の心中を知ってか知らずか、香代は2本目のカシスオレンジを飲み始める。




「ありがと、香代」
「え、もういいの?」
「うん。てかさ、香代は今どうなの?」
「彼氏?相変わらず。まあ、向こう今年3年の担任だったから、もう色々とそれどころじゃなかったし」




香代には、付き合って3年目に突入する恋人がいる。
相手も教員で、実は同僚という職場恋愛中だ。




「そもそもこの仕事、マジで余裕とかあったことない」
「ほんとにそう。しかも今、私高2の担任じゃん?順当にいけば来年私、高3の担任だから、今度はこっちが余裕なくなる」
「なんか仕組まれてんじゃない?上に」
「やめてよ…」
「私は来年どうかなー」
「そのまま行けば高2の担任じゃない?あ、修学旅行あるじゃん」
「それが唯一の希望」




2人はとりとめなく、仕事の愚痴や趣味の話を続けていく。
そういえば、香代も何てことない話で盛り上がれるし、沈黙も苦ではないなと、茜は改めてそう思った。



アルコールを摂取したため、香代は茜の家に今夜は泊まることとなった。
といっても、別段珍しいことではないのだが。
翌朝、いつもより遅い時間に目覚めた2人は適当に朝食をとって、香代は自宅へ帰っていった。



一人になった茜は、通称・人をダメにするクッションに体を沈めた。
そして、テーブルの上のスマホを手に取り、これまで航太とやり取りしたメールを見返す。


メールを読み返しながら、茜は香代の言った『縁』という言葉について考える。
たしかに、自分と航太が出会ったのは、偶然以外の何物でもない。
だが、『縁』がなければそこでおしまいのはずだ。それが、今もずっと続いている。
もちろん、続けるには互いの努力が必要にはなるのだが、茜にとってその努力は全く苦ではない。




自分と航太の間には、確かに『縁』があるのだろう。
そう思うのに、何らためらいも戸惑いもない。


もし、ここで断れば、きっと航太との『縁』は切れてしまうだろう。
それはすごく嫌だと、茜は思う。
航太との『縁』を続けていくには、関係性を変えるしか、今は手がない。
『縁』を続けるための『タイミング』が今なのかもしれない。
スマホを閉じて、茜は目を閉じ、改めて航太を想った。




航太がアイドルで才能あふれる役者であることは、もはや変えようがない厳然たる事実だ。
だけど、それが理由で航太と一緒にいたいわけじゃない。
ただ、航太だから一緒にいたいのだ。
ゆっくりと、茜は目を開ける。
目の前に広がるのはいつもの部屋の景色のはずなのに、不思議にきらきらとしているように見えた。
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