初老アイドルが一般人女子との恋を成就させるまで

「航太」



自分の思考に沈み切っていた航太であったが、自らの名前を呼ばれて、唐突に現実に引き戻される。声のした方へ振り向くと、そこにいたのは暁だった。



「そろそろ発表するって」
「あ、ああ」
「…ねぇ、航太」
「ん?」
「さっきから茜先生のことばっか見てるけど、一目惚れでもした?」
「は!?」



暁の言葉に、航太は心臓が飛び出そうになるくらいの衝撃を覚えた。
と同時に、この会話が第三者に聞かれていないかどうかの不安から、周囲をきょろきょろと見渡した。



「俺しかいないから大丈夫だよ」



航太の不安に気付いた暁は、柔らかい笑顔で航太の不安を取り除く。



「暁お前、何言ってんだ」
「え、違うの?」
「その自信はどっから来んだよ」
「いやぁ、なんか芝居やってからの航太見てたらそうかなーって」
「…この年で一目惚れとか、ねぇだろ」



この話は終わりだと言わんばかりに、航太は持っていた麦茶をまた一口飲んで、生活館に向かって歩き出した。
暁はまだ何か言いたそうだったが、諦めて航太の後を追った。
部室に航太と暁が戻ってから、エチュード対決が始まり、それはそれは盛り上がった。
番組スタッフ的にもかなりの撮れ高だったようで、安心した表情を見せている。


だが、その盛り上がる中、航太は悟られないように考える。
先程は暁にああ言ったが、もう自分の中で答えは出ている。
先ほどは自身の気持ちに驚き、戸惑ったが、部室に戻ってきて茜とまた目が合い、不思議なほど素直に自身の気持ちを受け入れられたのだ。


年甲斐もなく、彼女に惹かれてしまったのだと。


だが、自分の立場を考えた時に、軽率な行動はとれない。
それにもしかしたら、この気持ちも明日には消えてしまうかもしれない。
様々な選択肢がある中で、航太が選んだのは、「何もしない」というものだった。
そうこうしていると、部長のよっちゃんの号令で、部員全員でスパノヴァに感謝の挨拶をすることとなった。
そしてそれは、スパノヴァのメンバーがここを去る時が来たことを意味していた。



まだロケは続くので、次の行き先として部員たちにこの街のおすすめを聞き、彼らに別れを告げて部室を後にする。
ただ、お見送りということで、茜は生徒館の玄関まで来てくれた。
茜に再度礼を言って、4人はスタッフと共に校門へと歩き始める。
と、暁がすっと航太の横へと並ぶ。



「いいの?」
「何が」
「もう多分会えないよ?」
「……」
「せっかく出会えたんだ、これも何かの縁だよ」
「縁…ねぇ…」
「いいんじゃない?たまには思うように行動しても」



その暁の言葉が、すとんと航太の中に落ちてきた。
「何もしない」と決めていた心が、変わっていく。
いや、もしかしたら、誰かに背中を押してほしかっただけなのかもしれない。
おもむろに、航太は歩みを止めた。



「リーダー?」
「悪い、忘れ物したから取ってくるわ!」



琉星の声掛けが引き金となって、航太は弾かれたように振り向き走り出す。
事情を知らない一仁と琉星やスタッフは、呆気にとられていたが、暁だけが、嬉しそうに航太の背中を見つめていた。




夏の空気は相変わらず暑くて、航太が走り始めてすぐに汗が滲んでくる。
そして、先ほど航太が麦茶を買った自動販売機が見えてきた。
と、自動販売機に、今航太が一番会いたい人がいた。
その人は、自動販売機で飲み物を買おうとしていたが、駆け寄ってくる足音に気づき、音のした方へと顔を向ける。



「航太さん!?」



その人、茜は驚いた顔で航太を見つめた。
航太は茜の前で止まり、弾む息を整える。
同時に、勢いでここまで来てしまったものの、何をするか全く考えていなかったため、どうするかを必死に考える。
すると、目の前の茜は台本とバインダーを持っていて、バインダーにはボールペンがついていることに気が付いた。



「え?何か忘れものですか?」
「ペンと紙、貸してもらっていいですか」



整い切らない呼吸のまま、航太は茜をまっすぐ見つめてそうお願いした。
航太のお願いの意図が分からない茜だったが、別に貸さない道理もなく、少々いぶかしげに持っていたボールペンとバインダーを渡した。
バインダーには、ダメ出しを書いたであろう紙が挟まっていた。
だが、紙は下半分ほどが白紙で、航太はボールペンのペン先を出して、さらさらと何か書き始めた。そして、ものの数秒で書き終わると、ボールペンとバインダーを茜に返す。


その2つを受け取った茜は、航太の行動の意図が分からず、先ほどよりいぶかしげな表情を浮かべている。
と、バインダーに目線を落とした茜の視界に、航太が書いたであろう11桁の数字が飛び込んできた。
その数字の並びが何を意味しているか、茜は瞬時に察して、勢いよく目の前にいる航太を見た。
その表情は、信じられないという驚きを航太に伝えている。



「気が向いたら、連絡して」



そう言い残して、航太は校門の方へと走り去っていった。
後に残された茜は、再びバインダーに書かれた11桁の数字に目をやった。
『090』から始まるその数字は、確かに携帯番号だった。
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